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共生社会に関する調査会 〜障害者の自立と社会参加に関する件について〜

2003年05月07日 

○会長(小野清子君)
  「共生社会の構築に向けて」のうち、障害者の自立と社会参加に関する件について、委員各位の御議論を伺いたいと存じます。《一部略》

 〜中略〜

○鈴木 寛
 民主党・新緑風会の鈴木寛でございます。
 障害者の自立と社会参加に関する件につきまして意見を述べさせていただきたいと思います。
 この調査会におきましても、障害者の自立と社会参加に関する件で様々な参考人あるいは関係当局からのいろいろな御意見を承ってきたわけでありますが、この際、この調査会の一員として是非申し上げたいことは、やはり戦後続いてまいりました障害者法制、あるいは更に申し上げますと障害者に対する施策の抜本的な枠組みというもの自体を見直すということ、あるいは少なくともそのことについての検討をするという視点がやはりこの調査会としては必要ではないかというふうに思います。
 恐らく、個別の関係法あるいは個別の関連施策についての様々な問題点あるいはその改善についての提案というのは、ここにお呼びをいたしました参考人の方々からもいろいろな研究あるいはいろいろな実態調査あるいはいろいろな提案が行われているということは我々も十分勉強になったわけでありますけれども、しかし、やはりいろいろな参考人あるいはいろんな実態あるいは現地調査を見てみますと、どうしても現在の法律の枠組みに限界があるということを感じざるを得ない。そういう意味で、法律の枠組みあるいはその前提というものを見直すことができますのは関係省庁ではなくて正に国権の最高機関であります国会でありますので、国会がその点についてはやはり率先してそうした議論あるいはその機運というものを盛り上げていく必要があるというふうに考えております。
 この際、私はやはりもう一度この障害者という言葉、用語というものを本当にこのまま使い続けることが適当であるのかどうかといったことについてもここできちっと議論をしておく必要があるんではないかというふうに思います。
 この調査会でも現地視察をいたしました神戸市の社会福祉法人でありますプロップ・ステーションではこの障害者という用語は使わずに、先ほど清水議員からもお話がございましたけれども、正に挑戦をする、挑戦をする使命を与えられた人という意味でチャレンジドという言葉をあえて使っております。ハンディキャッパーではなくてチャレンジドなんだと。
 別にこの用語をいわゆる国のレベルで直ちに採用しろとは申しませんけれども、やはり用語の使い方というものはある意味で思想をかなり反映した、あるいは障害者という問題、あるいはこの問題に対する問題認識を非常に的確に反映をしているということもございますので、まずこの点について問題提起をさせていただきたいというふうに思います。
 それから、今日、私が主として申し上げたいのは、正に我が国における障害者の法的定義の問題でありまして、この点も清水議員がお触れになりましたけれども、清水議員から御紹介がありましたように、我が国においては障害者については、身体障害、知的障害、精神障害と分類をいたしまして、「長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」ということで定義があるわけであります。更に申し上げますと、国際連合でも障害者を、先天的か否かにかかわらず、身体的又は精神的能力の不全のために通常の個人又は社会生活に必要なことを確保することが自分自身では完全に又は部分的にできない人と定義をしています。
 近代法のフレームワークからすると、ある人を、まず障害者という概念を定義をし、そしてだれが障害者に当たるのかということを認定をし、そして、特にこういった障害者法制あるいは障害者施策については更に等級を決めると、こういうフレームワークを採用せざるを得なかったと。もう少し言いますと、リーガルエンジニアリングという言葉がありますけれども、人類の英知が二十世紀において積み上げてきた、何といいますか、知恵からすれば、定義をし、そして認定をし、そして等級を決め、そしてそれに対して経済的な支援策を中心とした施策を講じていくと。
 こういうことが二十世紀では、何といいますか、努力の限界であったわけでありますけれども、しかしやはりこの二十一世紀という時代を踏まえて、もちろん法律でできること、法律だけではできないこと様々ありますけれども、やはり原点に立ち返ってそうしたことについての検討をしていくべきだというふうに思います。
 特に、やはりこの定義論、更に申し上げますと、その認定論というのは個別にはいろいろな問題が提起されております。例えば、てんかんとか自閉症とか難病とかという問題がどうしても現在のいわゆる身体障害あるいは知的障害、精神障害の枠組みから漏れてしまって、明らかに社会的な、社会通念上の感覚からすると、常識からすると明らかにおかしな、不釣合いな認定と、そして等級の等級付けと、そしてそれに対する整合というものが常に、常に指摘をされ続けていくという構造が続いております。
 もちろん、そのことを指摘をし、そして少しでもその、何といいますか、不整合を修正をしていくという努力は大変に重要でありますし、そうしたことに日々当たっておられる関係者あるいは行政の機関には私たちは大変に敬意を払いますけれども、しかし、そういうフレームワークを見直す必要がやっぱりあるんだろう、そのことを提起するのは私は国会なんだろうというふうに思っております。
 それから、そういう意味で定義論、それから等級、そして認定ということのフレームワーク自体、これに代わる知恵を私は直ちに持ち合わせているわけではございませんけれども、そうした方向で議論を進めるんだ、あるいはそういう知恵を世の中全体から集めるんだというメッセージを国会が発することによって、そうした方面で、学識経験の方あるいは現場の方々がそういった方向に知恵を活用するという機運を盛り上げていくというイニシアチブを取ることが必要だということを申し上げているわけであります。ということと、それからあとは、やはり二十世紀から二十一世紀にかけて生じておりますいろいろな社会的な変化というものを十分に踏まえるべきだと思います。
 私は情報社会論の少し専門の勉強をいたしておりまして、特に障害者に対するITテクノロジー、情報技術を使った支援について少し勉強なり研究なりをしてき、そしてそれをボランティア活動でも少しお手伝いをさせていただいた者でございますが、そうしたやっぱり人間の情報処理あるいは情報編集活動を補完する技術、あるいはそのツールとしてITというものが出現をしてきたということは極めて大きな要素だと思います。今までは、主としていわゆる移動の障害に対して一定程度の道具といいますか、機器による補完というのがございましたが、それ以外の人間の知的生産活動、知的活動についての補助をするシステムないしツールが出てきたということについて、まだそれを正面から法律あるいは施策を構築する上でとらえていないというふうに思いますので、その点について一つは指摘をさせていただきたいというふうに思います。
 それから二つ目は、明らかにこの医療の革新という要素をどのようにこれから考えていくかということでございます。特に、再生医療技術というものが今までは研究段階にありましたものが、いわゆる臨床の現場において再生医療技術というものが普及をしてきております。
 今まで障害というのは、正に長期にわたって相当な制限を受ける者ということで、不可逆なものについて障害者と認定をし、そしてその生活を支援するという枠組みでできてきたわけでありますが、再生医療がこれから十年、二十年の間で急速に普及をしていきまして、今まで不可逆だと思われていたものが治癒はするという可能性が増えてくるということになります。
 そのことはもちろん人類あるいは社会にとって望ましいことなんでありますが、しかし、そこに非常に皮肉なことが起こりまして、要するに治癒が可能であるから、これは難病においてそういう現象が起こっているわけでありますが、治癒するかしないか分からないと、その治癒しないということが確定をされないと障害者として認定をされない。治癒するかもしれないというこの要素を、その施策と定義と認定の問題の中にどういうふうに考えていくのかという問題についても、再生医療技術が普及した時代における障害者施策というものをどういうふうに考えていくかということでございます。
 それから三つ目は、もちろん私は自立をし社会参加をすることというのは大変望ましいことだと思いますが、ここで我々が陥ってはならないのは、ライフスタイルあるいはいわゆる多様な価値観というものを非常に重要視すべきだということであります。自立をしたいと望む方には自立を勧めるべきであると思いますし、社会参加をしたいと思っておられる方は社会参加を支援すべきだと思いますが、ある一様なライフスタイルをまた押し付けることになってしまってはいけないということで、それぞれの方々の望む多様なライフスタイル、それから同じ方々でも人生のステージにおいてその望むライフスタイルというのは違うわけでありますから、そういった価値観あるいは生活観の多様化という問題についての問題を時代認識として認識をしていくべきだということであります。
 それから最後に、現在の障害者施策というのは、結局のところは経済的な支援というものを中心としてまいりました。しかしながら、清水議員もおっしゃっておられましたけれども、これからはやっぱり人間の尊厳、あるいはその機会をどれだけ付与していくか、学習機会とか就業機会とかですね、そうした様々な非経済的な支援策というものについてどこまで法律というものが、あるいは国家というものが立ち入れるのかどうかということについて、これも非常に大きな挑戦だというふうに思います。
 それから、これと絡みますけれども、最近はPPP、プライベート・パブリック・パートナーシップという言葉がございます。正に、今までは憲法二十五条で国家の必要最小限の責務としてもちろん障害福祉政策というものを行ってきた。これは当然でありますけれども、しかし、非常に重要なプレーヤーとしていわゆる民間の支援機関、その中にもちろん営利と非営利と、こういうふうにあると思いますが、それからガバメントではないパブリックなるもの、そうした経済主体と、それからNPOのような公共的な主体、そして政府のような主体と、この三者がいかに役割分担をし、そしてうまく連携をするかといった総合的な施策論についても検討をしていくべきだというふうに思っております。
 以上のような大きな社会の変化、それから価値観の変化がある中で、是非これを機会に障害者施策あるいは障害者法制の根本からの議論を強く望みまして、私の発表とさせていただきたいと思います。

 〜中略〜

○鈴木 寛
 私も、今お話のありました議員の皆様方に賛成であります。
 特に厚生労働省関係の施設においていわゆる障害者の方々の権利といいますか、そうしたものが十二分に確保されるようにという努力のこの意識というのはかなり徹底をされていると思うんですけれども。例えば、学校教育法に障害者の教育機会の均等を盛り込むという福島議員の提案に私も大変に賛同をしておりますといいますか、私もかなりいろんな教育現場におりましてそのことを痛感をしてきております。とりわけ私立の教育機関においては、対応が極めてこれは二分化されているという現実があります。
 先ほど羽田議員から、羽田議員は私立の高校に行かれましたけれども、そこではむしろそのことを大変に重点的に取り入れられて、いい教育を受けられたという御紹介がございましたが、そうでない私立の学校も極めて多いということも我々認識をしなければいけないと思います。
 今も、ですから、行政機関が、正にこうした障害者にとって非常に自立と社会参加が保障された社会を作ることにイニシアチブを取っていくということは当然でありますけれども、学校機関のように、準という、準が付かないと思います、公共的性格を持つ、これは私立といえども相当な私学助成金なども入っているわけでありますし、学校教育法で公教育というカテゴリーを担っているのが学校法人でありますから、そういった分野について、やはりいま一歩踏み込んだ改革というものがかなり残されているのではないかなということを私も強調させていただきたいと思います。
 それから、バリアフリーではなくてやっぱりユニバーサルデザインなんだということは、これは何度繰り返してもし尽くせないほどこの調査会で確認をしていただきたいコンセプトだということを併せ申し上げたいと思います。
 以上です。

 〜中略〜

○鈴木 寛
 先ほども意見で申し上げましたんですけれども、今日のレジュメは、あえて「障害のある人の」というふうに表現をしていただいていることに大変高く私は敬意を表する次第であります。
 なぜならば、障害者とは、これは法律の定義によると、「身体障害、知的障害又は精神障害があるため、長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう。」、こういうことになっているわけですね。
 しかし、もう多くの議員から議論が出ていますように、長期ではなくて短期であれば、あるいは相当な制限ではなくて軽度な制限であれば、これは、すべての人は身体障害、知的障害、精神障害は短期的に、一時的であれ、あるいは軽度ということも含めば、制限を受ける可能性といいますか、すべての人はこれは、こういう経験は少なくともあるし、そういう可能性はすべてにあるんだということであります。我々はすぐ障害者という言葉を使いますけれども、その障害者という言葉を使った瞬間に、長期にわたり相当なということが掛かってきてしまうんだと。
 私は、やっぱりこの際、是非、障害者基本法というものを見直す中で、この障害者定義、障害者という方を長期と相当というカテゴリーの中に押し込んで、そしてその方々の権利法制を考える、これは当然のことなんですけれども、それに加えて、やはりユニバーサルデザインとかあるいはそういうユニバーサルなコンセプトということは、そして、障害者は他人の話であると、こういう風潮、あるいはそこから差別というものが発生をしてきます。
 という意味で、是非この「障害のある人の」というふうに非常に言葉を選ばれた会長及び事務局の精神といいますか、基本的なこの問題に対する姿勢というものを今後のこの会での議論あるいは障害者基本法の在り方を見直す上でやはり根本に、基本に据えて私はその議論を進めていくべきだということを再度強調させていただきたいというふうに思います。

 ≪鈴木 寛 発言のみ抜粋≫  


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