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 現代の教育に関する講演会 ≪in 多摩≫


 ■ 教育について、今思うこと

 明けましておめでとうございます。昨年は大変みなさんにお世話になりまして、本当にありがとうございました。私は人づくり・知恵づくりをやりたい、ということで国会に入りましたが、念願叶いまして文教科学委員会に所属させていただきました。本日は、4月からは新学習指導要領も始まり、今、お母さん方は、子供たちの教育をどうしたらいいのか迷っていらっしゃると思います。今日は、皆さんが、これからお子さんのことでお考えになる際のヒントについて少しお話ができたらと思います。

 

        奨学金制度について

今私立大学にお子さんを通わせますと、年間250万円くらい平均でかかります。およそ家計の3分の1にあたるそうです。お二人だと3分の2ですから、教育費破産ということが冗談でなくなっています。これは本当におかしな話です。ですから、是非、私の公約でもあります希望者全員奨学金制度を実現したいと思っています。昨年の国会でも遠山文部科学大臣に希望者全員奨学金制度を検討してくださいと申し上げました。

しかし、昨年秋には、奨学金充実どころから、石原行革大臣から日本育英会は廃止・統合という提案が出されていましたから大変でした。私も、国会質問等でも遠山大臣に対して強く再考を促し、結局、日本育英会は独立行政法人というかたちで存続ということになりそうですが、まだまだ、予断を許しません。育英会廃止統合というマイナスからのスタートでしたから、大変な苦戦でしたが、結論的には、奨学金をもらえる人数は、14年度予算案では、今まで75万人ぐらいだったところが80万人ぐらいに増えることになりました。ちょっと残念なのは、5万人増えた分の奨学金は、利子付なんですね。とにかく、家計が大変だから、まず、もらえる人を増やそうということになりました。有利子であっても奨学金を借りることさえできれば、返すのは子供ですから、お父さん・お母さんの家計自体は大分楽になります。今後は、対象者を増やすとともに、子供さん達のために、無利子で、可能ならば給付されるように制度の充実を図っていきたいと思っています。例えば、アメリカでは、だいたい受けた奨学金の3分の1ぐらいは給付、3分の1は無利子、3分の1は有利子といった具合ですから、そういう方向に向かって、奨学金を受ける人数だけでなく、質も高めていかなければならないと思っています。

当分は、国の財政も大変ですから、奨学金関連予算を増やすというのも、すぐには難しいわけですが、私が一貫して主張していますのは、今、コンクリートにつかっている予算を「人づくり」に充当すれば、こうした問題はかなり解決します。本当の構造改革というのは、無駄なコンクリート予算に使っている皆さんの税金を、人づくりや知恵づくりにまわすことだと思っています。民主党は、今、野党と一緒に、予算の組替え要求をしておりまして、奨学金の大幅積み増しを求めていますが、今は、自民党が与党ですから、十中八九、今の予算案が通ってしまうと思います。そうしますと奨学金の対象者の増加は5万人ということで落ち着くことになります。来年更に一生懸命頑張りますので、ご支援をお願いします。

それからもうひとつ、今年の予算編成で特に力をいれたのが、高等学校奨学事業支援です。経済的な理由で修学困難な高校生に対して奨学金貸与事業を行う都道府県に対する補助金を20億円新設することとしました。

その前に、昨年秋には、「緊急採用奨学金」制度を無利子でスタートさせました。家計支持者の失職、災害等による家計急変のため、緊急に奨学金貸与の必要が生じた方を、随時、奨学生として採用するものです。これで何とか高校をやめずに済む手段をつくることができました。

 

 ■ 何のための「教育」か

私がどういうことを根本に考えながら、教育問題に取り組んでいるのか、私もまだ自分の中で整理ができていない所がいっぱいあります。ですから、今日はむしろ僕が悩んでいることも含めてお話を申し上げて、そして皆様方からいろんな御意見を頂く、そんな皆さんとの対話の一歩として、私が日頃考えている事をまずお話ししたいと思います。

何のために教育をするかということですが、小学校・中学校では2002年今年4月から学習指導要領が変わります。みなさん、新聞などで御覧になっているかと思いますが、円周率を3.14ではなく3で教えるとか、台形の面積の公式は教えないとかいろいろ報道されています。そんな報道に煽られて、学力低下は大丈夫か?と、センセーショナルなコメントが紙面を賑わせています。新学習指導要領の概略をお話すると、大きなポイントは二つあります。一つは、完全週休2日制の実施です。これにより、全体の授業時間は減ります。それから、二つ目は、新しい科目が増える事です。新設科目は二つありまして、ひとつは総合的な学習の時間、もうひとつは小学校の場合は総合的な学習の時間に含まれるのですけれど、中学ですと、技術のなかで情報という授業が始まります。高校でも、情報という教科が始まります。週休2日ですから、全体の時間数が減り、そして、総合的な学習の時間などが増えますから、当然今までの国語・算数・理科・社会・英語は、その時間が少なくなってしまうわけです。そうしますと、かなり内容を省略しなければいけない、ということです。ただ、円周率については、本当に報道が非常にいい加減でして、学習指導要領の本文を見ますと、「円周率としては、3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるように配慮するものとする。」と書いてあるわけで、教えたい先生はですね、一応3となっているけれども実は3.14なんだよと、しかも3.14でもないんだよと、3.141592・・・・だよということだって教えることが出来る。そんなものは現場の先生が、ちょっと一言添えてあげればいい話でありまして、それをつかまえて、3.143になったということを、鬼の首を取ったみたいに指摘して、何を議論しているんだろうと私は思うわけであります。

あまりにも学力低下、学力低下と言うものですから、参議院文教科学委員会でも参考人質疑というものを行いまして、学力低下をめぐる問題点について参考人に来て頂きました。東大の教育学部の先生とかですね、私の友人でもあり、サラリーマンでもある、足立十一中学で「よのなか科」という科目を、中学校3年生に毎週教えている藤原さんという私の友人にも来てもらいました。サラリーマンをやりながら水曜日の午後は休んで、足立十一中学で「よのなか科」という授業を教えています。これはどういう授業かといいますとですね、今「経済」というと、いきなりお金とは、価値を保存する役割・交換する役割と、こういうことから公民の教科書は始まるんですよ。そうじゃなくて、地図を配りましてね、白地図、ある駅周辺の。君がハンバーガーショップを出すとしたら、店長だとしたらどこに作りますか?そこからいろんなことを考えていきましょう、と自分達の身近なところ世の中を見る目をちょっとずつ広げていくという授業を考案しまして。そして、毎回いろんなゲストを呼んできて、例えば、足立区役所のお仕事という時は私が駆り出されましてですね、「役所というのはどういう仕事をしているのか」「税金とは何なのか」ということを私から話をしました。その時も「税金とは?」「区役所とは?」とかで始まるのではなくて、駅前に放置されている自転車がありますねと、これをどうやって片付けますか?と、お年寄がお買い物に行った時に自転車が倒れてきたりして大変ですよねとか、あるいは小さなお子さんを連れているお母さんがベビーカーを押して入るのに困るよねと、じゃあ、誰がそれをどのようにして解決したらいい?というような問題を与えまして、それを解いてもらう、そんな授業が「よのなか科」です。

そういった授業を考案した私の友人も、参考人質疑へ入って学力問題を議論しました。そこで、私が申し上げたのは、「学力とは何なのか?」ということの議論が、世間で行われている議論から、すっかり抜け落ちているということです。今年行われた学習指導要領改訂、(私は通産省にいる時から、97年頃から「情報」という教科を入れるという関係で、この学習指導要領の改定作業にずっと携わってきたわけでありますけれども)、新学習指導要領の一番底流に流れている考え方は「生きる力」を育成するという考え方でありました。学校教育を通じて、もちろん家庭教育、社会教育を通じて、如何に子供達に「21世紀を生きていく力」を身につけてもらうかということが、新学習指導要領の根本にあります。

 

        生きる力とは

これからの21世紀を生きる、生きていく力とは何なのか、そこから掘り起こして教育を再考していかなければというわけです。しかし、今いろんな議論が混乱をしている。生きる力というものについての考え方がまちまちなんですね。審議会でいろんな偉い先生が集まって議論をしていますが、「生きる力」とは何かということをきちっと理解してそれを教えられる人材もカリキュラムもまだ十分ではありません。

では、20世紀の生きる力とは何だったか、と言いますと、19世紀は世の中のほとんどの人は農業をやっておられました。ですから、農業をやる、田んぼをやる、畑をやる、それがうまい、それが上手なことが「生きる力」だったわけです。20世紀はですね、農業をやる人が少し減って、その分、何が増えたのかといいますと、工業とか、工業製品を売る商業とかです。工業と商業が、働き手の一番多いところですから、より良い工場で働く、より良い商店で働くということが、イコール「生きる力」ということになります。そういう所、即ち、より大きなメーカー、商社、商業に就職できればお給料も多い、生活も安定し、保険もちゃんとしている、60歳まで一生安泰とこういうことだったわけです。

つまり、優秀な工場生産者になることが、生きる力ということだったのです。その社会人になる前段階として、小学校・中学校・高等学校・大学で、如何に工場に入った時に良い仕事ができるかという基準で、20世紀の教育というのものは組み立てられていました。20世紀の「生きる力」というのはそういうことでした。日本の義務教育というのは、9割以上の対象者、9割以上が尋常小学校に通うようになったのが、1900年ちょうどですが、1900年から2000年までちょうど1世紀間そうした教育を目指し・実行してきました。学制はもうちょっと前、1877年ごろからなんですけどね。1900年にやっと9割の人が学校行くようになったんです。1880年とか1890年ごろには、父母は、子供を学校に行かせたくなかったんですね、なぜか?学校なんか行ったってしょうがない。学校行く間があったら、家で畑仕事しろと。学校行ったところで、鍬の使い方も何も覚えられない、それよりは実地で田んぼへ行って田植えした方がよっぽどいいわけです。自分の田んぼからいっぱいお米が取れれば、生きていけるわけだから、19世紀の生きる力は農業だったのです。だから学校になかなか行かなかった。

それを文部省がですね、一生懸命、命令を致しまして、学校に行かないと罰するぞみたいなことをやって、なんとか1900年ぐらいに9割の人が学校に行くようになったわけです。

国や文部省は、日本を工業化して、富国強兵をやりたかったから、国民を学校にいかせたかった。

 

        20世紀と暗記力

日本の教育では、今まで暗記力が重視されてきたといわれています。それには理由があるのです。まず工場で、何をしているかを思い浮べて頂きたいんですけど、工場では大量生産をしているわけですね。大量生産というのは、流れ作業です。ベルトコンベアシステムが稼動しているようなことイメージしてみてください。例えば、ベルトコンベアが10秒かかる場合と20秒かかる場合と、どっちが生産性高いかっていうと、10秒で隣の人にベルトがぴしっと動いた方がいいわけですね。20秒で動くよりも。そして、自分の仕事のマニュアルがあるわけです。お手本、指示書があるわけです。その指示書を見ながら、例えば、車だったらここのネジをとめるとか、このガラスをはめるとか、このガラスをはめる時に注意すべきことはこれだとか、ここのネジをこういう順番で左回りにとめるとかですね、まぁ、マニュアルを見ながら、マニュアル通りに仕事をきちっと全ての人が素早くこなすという事が大切です。誰かがさぼったり、ミスしたりすると不良品になってしまいますから、ラインに並んでいる全ての人が自分の与えられたマニュアルをきちんと言われた通りにやるということが、そっくりそのまま、故障の少ない性能のいい車になるわけです。こういったことに日本人はとても得意だったから、トヨタ自動車は世界一の自動車会社になったわけです。これでお分かりだと思いますが、何故暗記が大事かというと、マニュアルいちいち見ながら作業をやっているとすると、1分かかったとする。でも、マニュアルを全部覚えてその通りにやれば、10秒でできるとなると。60秒でマニュアル見ながらやるよりずっと効率よくできる。10秒で暗記してですね、言われたことをシャッシャカ来た瞬間にピシッとやる。言われたことに何ら疑問も持たず、「何故ここはとめるんですか?」なんて、工場長さんにいちいち聞いていたら、いつまで経っても、ベルトコンベアが次に行かないですからね。いわれたこと、与えら得たマニュアルに何ら疑問を差し挟まずに、上司から言われたことをきちんとやる。これが優秀な工場労働者なのです。ですから、暗記力と指示されたことを100%正確にこなす能力、しかも短時間でということが重要なんです。ですから、今の学校の試験は、暗記を大量にして、そして決められた試験時間、50分なら50分、60分なら60分に覚えたことを正確に吐き出すといったたぐいのものになるわけです。その能力が高い人は勉強ができる人、優秀な人と。どの企業でもそれは同じです。例えば銀行でも、お客様の預金を頂いて、必要なことが書いてあるかをできるだけ早くチェックして、それを直してと、ある意味での流れ作業をやっているわけです。そういう意味で、銀行でも、スーパーでも、工場でも同じことです。要するに、今の多くの作業所では、ちゃんと暗記して決められたことを正確にやるということができる人が多い会社ほど、良い会社、儲けが上がる会社だったわけですから、したがって、教育もそういう人材をせっせと養成したわけです。その教育に大成功したから、日本は経済大国になれたわけです。

こういう教育システムはイギリスから始まり、その直後にアメリカに伝わりました。こういう教育スタイルをマスプロ教育と言いますけど、その特徴は黒板です。江戸時代には黒板なんてものはありませんでした。寺子屋へ行きますと分かりますが、明治の教育に関する文献を読みますと面白いです。多くの日本の教師は、黒板というものをどう使っていいか全く分からずかなりテコズリます。当時、黒板の使い方というものをアメリカ人の教師が来て、日本人に教えているのです。今、パソコンをどう使うかということを教えているのと全く同じことが起こっているわけですね。今だったら黒板どう使うかなんて簡単なことですけれども、当時は自分の机の上に半紙が置いてありまして、みんなが習字の筆を持って、先生がぐるぐる回っては教える、とこういうスタイルが江戸の寺子屋の基本です。近代教育になると、先生が動きまわらずに、多くの学生を一同に介して、黒板を使って、そこに注目させる、これはまさにイギリス・アメリカから始まった教育システムで、日本はこういうシステムの教育を導入することに、後発組でしたが大成功したわけです。結果、Japan as No.1といわれ、日本は世界で一番だということになったわけであります。

 

21世紀の「生きる力とは」

20世紀はそれで良かったかもしれない。しかし、21世紀に入ると、そんなに暗記力は大事じゃなくなります。なぜかと言いますと、マニュアルと同じことを大量に短時間にやるということは、全部コンピュータがやりますから、人間の仕事ではなくなります。工場にでも、ネジを正確にとめることで、人間がいくら頑張ったって、コンピュータには勝てっこない。要するにお手本とそっくりそのまま真似をするという能力においては、人間より機械が勝つわけです。ということで、そうした反復継続作業というのは、コンピュータを使えば100%できる。人間で100%できる人はいなかったから、99点の人と96点の人と、どちらが3点高いとか、そういうところで競い合ってきました。トヨタは99点で、アメリカのメーカーは96点で、韓国の自動車会社は86点だなんてことをやってきたけれど、反復継続をする必要が極めて乏しくなりました。このように暗記して短時間のうちに早く作業を正確に終えるということを人間が行う必要はなくなりましたから、それは今や「生きる力」ではないわけです。すると、これから人は何をするのかということになります。

まず経済の世界だけで申し上げでも、最初につくる試作品、これは人間が得意です。デザインやレイアウトを、一から考えなきゃいけない、アイディアをいっぱい出さなきゃいけない、そうして出したアイディアで不具合な部分、不都合な部分を直していかなきゃいけない。機械に真似させるモデル、最初の試作品を作るということが人間の仕事ということになりました。しかし、試作品というのは、なかなか一人では作れないものです。エンジンの設計も、タイヤの形も、ドアのデザインも、全て一人でつくることができる人はいません。必ずチーム・グループで共同作業ということになります。そして、共同は共同でも、今までの共同作業とはちょっと違います。それは何かと言いますと、これからの協働は、メンバーそれぞれの専門分野が違うわけですね。デザイナーとか、エンジン技術者とか、タイヤ技術者、乗り心地ということになると、空間デザインや、人間工学、認知科学の分野にまで専門分野は広がります。今までは、覚えたものを短時間に吐き出すという作業に長けている人達の集団でした。しかし、21世紀は、違う能力の人達が一つのグループを作って、それぞれ役割が違うけれども、みんなが自分の得意なものを持ち、そしてひとりではできない新しいものを作り上げていくコラボレーションの時代です。ですから、不得意なことよりも、得意なことをどんどん伸ばしていくことがまず第一です。しかし、みんなが勝手なことばかりやっていたらどうなるかというと、当然ぐちゃぐちゃになるわけで、そこで他者とのコミュニケーションを上手くとっていくという力も重要になってくるわけです。

20世紀の「生きる力」は覚える力とそれを繰り返す力でした。そして、21世紀の「生きる力」は何かといいますと、一つは「コミュニケーションする力」、二つめは「判断する力」ということだと思います。このふたつを子供達に身につけてもらうべき力だと思います。もちろん「想像力」「創造力」など他にも重要な力はありますが、全ての人に豊かな想像力・創造力を期待する必要はないわけですから、幸運にも豊かな想像力に恵まれた人はどんどん伸ばしていくことができる環境は創っていくとして、全ての子供達に身につけてもらいたいのは「判断する力」「コミュニケーションする力」であると思います。その「判断する力」の中でも、「何を判断するか」というところで、「真」「善」「美」ということを見極め・判断するということじゃないかなと思います。「真」というのは、まさに何が「真」かという事で、何が本物で何が偽物かという「真偽」を判断すること。それから「善」は、これが「善」これが「悪」と、これは良いこと、これは悪いことという「善悪」を判断する力。「美」は、まさに何が美しく、何が醜いかということを判断する力。この3つすべてが大事です。世の中にはいろんな人がいます。これは「真偽」だけ判断できても、「善悪」を判断できない人は大勢います。「真偽」の見分ける力は非常に高いんだけれども、「善悪」の判断力がずれていたり、「美醜」「美」意識ゼロの人も案外多いです。そういう意味でやっぱり人たるもの、「真」「善」「美」のバランスはどれ一つ欠けてもいけないのだろうなと思います。

昔、IQ135とか160と、知能を測る指数としてIQというのがありましたけど、最近はEQというのが流行っていますね。EQというのはEmotional Qualityっていいまして、心的、感情的能力を測るのがEQです。学校の成績は悪かったけれども社長さんになられる方が大勢いらっしゃいますね。そういう方がEQの高い人だとよく言われます。政治家もIQよりもEQだと言われておりまして、私も選挙の修業を通じてEQが多少上がったかなと思います、まだまだ皆さんに教えていただかなければなりません。このように最近IQだけじゃなくてEQだとかって言われているものも、言い換えれば恐らく「真」「善」「美」全部のバランスをよく育んでいこうということではないかと思っています。何も英語でいう必要はないわけで、日本には「真・善・美」という良い言葉があるわけですから。だいたい日本では「EQ」とかいうと本が売れて、「真・善・美」とか書いてもあんまり売れないんですね。このへんの美意識も、なおしていかなければと思います。私はまさにこの「真・善・美」を教えていくってことが大事じゃないかと思っています。

話は「コミュニケーション」に戻りますが、これからの時代は、自分と異質な人達と一緒に協力してやっていかなきゃならない時代です。たとえば、車をつくるためには、デザインナーとエンジニアが協力しないと自動車は走らないんです。デザイナーというのは、カッ飛んだセンスを持っているわけで、直感で、これは綺麗だと駄目だとかすばっと言うわけです。エンジニアの方は、コツコツと一生懸命積み上げてきちんと考えていきます。デザイナーとエンジニアをどう話を合わせるか、同じ日本語使っていたって全然話が合わないですからね。デザイナーにもエンジニアにも、自分と違う世界の人と話をする、人とちゃんと話ができる力というのは、生きていく上で必要ではないかと思いますし、またその仲立ちをする力も、非常に重要だと思います。

 

 ■ 身近なコミュニケーションの大切さ

今まで国語・算数・理科・社会・英語という科目がありました。子供達には、なんで英語を勉強しなきゃいけないんだ、なんで数学勉強しなきゃいけないんだという疑問があります。何故、英語を勉強しなきゃいけないかというと、これからは日本語を喋れない人とも協力をしていかなければいけない。例えば、アフガンで大変なことが起こりました。そして、多くの日本のみなさんもNGOという形でアフガン復興に大変に活躍をされている。素晴らしいことだと思いますけれど、その素晴らしいことをやっていくにも、英語ができた方がいい。本当ならアフガンの現地の言葉ができたらいいですけど。一応、今のところ、英語という言葉は、世界で通じる可能性が2番目に高い言語ですから。一番は中国語です。15億人もの人が使っているわけですから。日本人以外ともコラボレーションするためには語学ができるのは良いことですよね。そこをいわずに、英語をやれと言ったって、子供達は勉強しないですよ。

加えて、僕が申し上げたいのは「コミュニケーションをする力」とは果たして語学だけなのかということです。私はサッカーが大好きです。好きでやってるんで能書きはいらないんですが、多少かっこよく言うとですね、サッカーは世界の言葉なんです。5歳ぐらいのイギリス人の子とパキスタンの子とインドの子とアフガンの子がいたとします。サッカーってものすごく簡単です。手を使っちゃいけない、ルールはそれだけ。これは誰でも分かります。そうしますと、ボールひとつあれば、これで蹴りっこして、あのゴールに入れるんだいえば誰でも分かり合えます。ジェスチャーでも分かります。さっきから申し上げております共同作業のモデルがそこにあるのです。共通のグループ或いはチームで一緒の目的に向かって、つまりゴールに向かって、みんながそれぞれ役割は違うけれども協力していく。そこに言葉は通じないけれども、目と目でパスするぞと、以心伝心、あいづちとか、目配せとか、あるいは声を出すとかですね、言語が通じない人でもボールひとつでコミュニケーションすることができる。心が通じればいいんです。言葉は通じなくても、サッカーの試合が終わった時にはみんなが友達になっているわけですね。だから、それも立派なコミュニケーション、ですからサッカーもコミュニケーションなんです。

私は、音楽が大好きですが、「ほたるの光」という曲はみなさん良くご存知だと思います。これは、もともとはアイルランド民謡なんですよね。日本の歌みたいに皆さん思っておられますが。そうすると、アイルランドの人が来られたら、英語が喋れなくても、「ほたるの光」を歌ってみれば、なんとなく顔がほころんで、悪い奴じゃないなと思うわけです。私も、モンゴルに4年前に行きまして、その時は「ほたるの光」ではありませんでしたけれども、モンゴルの小学生の女の子たちが、「さくらさくら」を歌ってくれまして、それだけで涙がでるほど感動しました。歌も世界の言葉なんです。絵だってそうです。写真だってそうです。要するに心通ずるものであれば、何でも、サッカーでも音楽でも、好きなことならなんでもいいんだと思います。信仰もそのひとつだと思います。私はアジアの人とお話をして、やっぱり自然宗教的な感覚というのは、アジアの人と心の奥底で通ずるなと思います。ほんのちょっとした時にね。例えば、お寺へ行ったら自然と手を合わせます。中国のご家庭伺って、ご先祖のお仏壇とは言わないんでしょうけど、それらしき御位牌があれば自然と手を合わせますよね。それでもう心通ずるわけであります。私は「コミュニケーションする力」というのは非常に身近なところにあるんだと思います。自分がちょっと気がついた、気になったところから、始めていけば、広げていけばいいと思いますし、子供というのは、いろんなことをつまみ食いをします。食べては捨て、子供はとっても移り気です。その中で、その時、一番相性の合うものに、虜になっていきますから、基本的には、好きさせてあげればいいんです。そのうち飽きてきますから。そうすると次のことに関心が向きます。そんなふうにしながら人間として総合的な「コミュニケーションの力」が自ずとついてくるのです。

 

 ■ 大人が子供のためにできること

そうなると大人は何をしてあげればいいのでしょうか?21世紀を生きる力は「対話をする、コミュニケーションをする力」と「真・善・美を見極める、判断する力」だと言いましたが、この二つの力を子供達に身につけてもらうために、いろんな出会いを作ってあげることだと思います。その出会いの対象は、人との出会い、自然との出会い、そしていろんな出来事との出会いですね。私事で恐縮ですけれども、私の両親の方針で、私は、子供の頃からとにかくお葬式に立ち会いました。それは悲しい現場でありますけれども、そこでは、その故人の冥福を祈ってお集まりになられた縁のある方々が、いろいろな思いを込めて手を合わせておられるのを見させて頂くわけです。そうすると、この亡くなられた方の生涯というものが、どんな生涯だったのか、これだけの方々の心に残る足跡を残された方なんだなということを、肌で感じるわけですね。今振り返りますと、このことが良かったな、良かったなと言うと不適切かもしれませんが、いろんなこととの出会いのなかで、出来事との出会いとして、私の人格形成上、大きな位置づけを占めているのではないかなと思うわけであります。

「環境保護」が大事だとよく言いますが、こうしたことは教科書で暗記させたってしょうがないわけでして、それよりも綺麗な野山を一緒に歩く、川の澄んだ水というものは本当に綺麗だと、その美しさを見せずして綺麗な山を守りましょうとか、綺麗な川を守りましょうと言ったって空虚です。自然の美しさ、素晴らしさというものを肌身で体感させてあげれば、おのずと自然を愛する心は身につくんだと思います。ポイ捨てはダメだとか言いますが、善悪で説明するのは簡単ですが、実は、子供に善悪を伝えることは案外難しいときもある。どうしても押し付けになってしまいます。それより、子供には、格好悪いでしょ、美しくないでしょ、醜いよねと、美的感覚で感じさせてあげられればいいんだと思います。善悪は、大人の世界だと、割とご都合主義で変わることがあります。成長期の子供にとっては、この大人のご都合主義が我慢ならないときもあり、それが反抗心を生んだりもしますが、美意識というものはご都合主義では変わりませんから、こうした方法も大事です。話しが飛びますが、今の日本がダメになったのも、美意識の欠如が理由ですよね。総じて言えることは、今、この失われた10年日本の中枢で起こっていることは醜いということですよね。会社経営にしても、利権政治にしても、法にはぎりぎり触れてないのかもしれません、悪だとは言い切れないかもしれないがそれも醜い。これらを、浄化しよう、美しくしようという運動がこれから大事です。政治浄化のメッセージは、善悪の判断を超えて、共感が得られるのではないかと思います。

 

 ■ 美意識とボランティアが日本を救う

私は、もう少し美意識の話をしたいのですが、21世紀を生きる力として、何故美意識が重要かと言いますとね、例えば、教育にしても、環境にしても、福祉にしても、少し難しいお話になりますが、今までは、良い福祉をするには税金をたくさん集めなければなりませんでした。集める税金が少なければ、福祉に使うお金も少なくなります。高負担高福祉か低負担低福祉か、税金いっぱい頂ければ手厚く、少なければ手薄く、ということになります。例えば、アメリカ民主党というのは前者の立場。アメリカ共和党は、税金は安くして福祉給付も安くしますよと。この二つの考え方を大きな政府と小さな政府という分け方をしてきましたが、日本では、高齢社会がどんどん進みます、そうすると、福祉の水準を維持していても、ほっといても社会福祉の予算が増えていく。しかし、日本は不景気で借金まみれです。どこに予算があるんですか?増税できません。景気ガタガタになっちゃいますから。借金もできません。となるとですね、福祉の水準を落とさずに、それにかける予算を節約するという手品みたいなことをやらなきゃいけない。要するに、お金をかけずに満足度を維持する、より満足度を上げるというマジック・手品ができるのかどうかというところが、21世紀の政治の鍵となります。こんな手品ができるのか?実は、できるんです。種明かしをしましょう。  

「ボランティア」っていう言葉がありますね、この「ボランティア」を今までやってきた行政に加えることによって、満足度を落とさずに、この満足度を上げながら、予算を節約できる。例えば、介護ひとつを取ってみても、今までは全部お金で解決していました。でも、ボランティアの方が非常に安く実費で来て頂けるとします。ビジネスだった、かけるお金が安くなれば、当然、そのサービスは低下します。真のボランティアなら、お金の多寡は問いません。さらに、介護される側からに立ったときに、ボランティアで介護に来て頂いた方と、お金目的で来た方と、同じ内容の介護をしてもらうにしても、どちらが満足度が高いでしょうか。それはやっぱりボランティアで来て頂いた方の方が、おそらくや介護していただく側も喜びが大きいはず。それに、ボランティアは、やる方も嬉しいんですね。お金一銭ももらわなくても、人から感謝されるってことは嬉しい。今日は本当に喜んでもらったな、その笑顔だけで、今日1日ボランティアして良かったなと。こういう本当のボランティアというものを活用していくと、お金はあんまり使わないですけども、みんなの幸せが増えていく。介護した方も介護してもらった方も両方とも喜びが増えていくという手品なんですね。もちろん、すべての種類の介護をボランティアにおきかえるわけにはいきません。お金をきちんと払って専門的で高度なサービスを受けるということが大事な仕事分野もあることも十分承知してますが・・・・

如何にみんなで喜んでボランティアをやっていくか、こういう社会をどれだけ作れるか。教育でも環境でも子育てでそうです。人間が潜在的に持っている自発する力を如何に自発させられるか、そういう環境を作っていけるか、そういう出会いを作っていけるか、そういう刺激を作っていけるか。これは教育でも、環境でも、福祉でも、そうです。それぞれの市民の皆様方に、自発的に何かしてみよう、世の中のために社会のために何かしよう、そういう雰囲気、環境を作るかということが鍵になるわけです。如何に人を自発させるかということがこれからの社会づくりの課題になるのです。

人はどういう時に行動しますか?私もすべて答えがわかっているわけではないですが、ひとつはですね、儲かるから、損をするから、これは飴か鞭による動機づけですね。でも、飴か鞭で動いても自発とは言いません。鞭で動くのは強制ですから。得で動くのは、単なる欲得に目が眩んでるだけの話ですから。今までは飴と鞭で全てのことを解決しようとした。ボランティアというのは、やっぱり自分から納得して行動することです。ここで大事なのは、私がずっと申し上げています「真・善・美」というものをきちっと判断できる能力、これは人として正しいことなんだ、人間の生き方として美しいことなんだ、それを自問自答の中で、自分が何をすべきなのか、人間の根本にちゃんとした「判断力」があって、今自分は自発すべきなのかどうなのか、自ら問うていく、あるいはグループで議論していく、ということが日本全国で行われるようになれば、素晴らしい自発がどんどん起こっていきます。ですから、自発の条件というのは、「理解と共感」にあります。

私たち民主党も、アフガン難民のために募金活動をしましたが、この前びっくりしたのは、クリスマスの日、東京ディズニーランドの前で青年たちが大挙して一生懸命募金してるんです。これは、素晴らしいですね。成人式に市にディズニーランドに招待してもらってよろこんでいる若者がいるなかで、外には、見上げた若者たちがいると、私は本当に嬉しかったです。非常に対照的でおもしろかったです。でも、まだ外で募金をやっている若者はまだ少ない。外と中の比率を変えていかなくてはと思ったわけです。そのためには、若者がいろんなことをまずは知らなければなりません。ディズニーランドの中にいる若者は、芸能人のことは知っているかもしれないけど、アフガンで何が起こっているのかは知らない。しかし、ディズニーランドの外で、本当に寒風の中、寒い中、朝早くからずっと喉をからしながら頑張っている若者達は、日本の若者は恵まれているけれど、アフガンではこんなことが起こってるんだということを教えられたんでしょう。その若者の先輩達は、実際に現地に赴いてJENというNGOでがんばっています。以前一緒にいろんな活動した先輩達がアフガンの現地に行っているということを知っているわけです。そうしたことを知っているからこそ、今自分が何をしなければならないか正しい判断ができるわけです。

知るだけでは足りません。ものを知っているということでいえば、学者はものを良く知っているわけです。では学者がみんな募金活動をやっているかというと、やってない学者の方が多いわけで、知るだけじゃダメなんです。知った上で、そこにやはり心といいますか、何が人としての美学なのかをきちっと持っていることが重要だと思います。今の日本は醜いということを申し上げましたけれど、美学なき政治と美学なき経営というものが今日の荒廃した日本社会を生んでしまった。

私、今民主党代表室の次長をやっていますが、鳩山さんが年末アフガニスタンに日本の政治家としては初めて入りました。荒廃したアフガニスタンでありますから、カルザイ議長や幹部に会ってきましたが、その報告のなかで、非常に感銘したことがあります。鳩山さんもすごく感銘を受けられたようですが、議長は「人として尊厳を持って、散り散りになっている難民の人達がもう1回首都カブールに戻ってきて欲しい。」とおっしゃったそうです。あれだけ爆撃されて食うや食わず命からがら。という中で、今の日本だったら、尊厳という言葉が出てくるかなと思います。しかし、そういう中にあっても尊厳という言葉をおっしゃられる。あるいは、彼は、アフガニスタンにとって大事なことはアイデンティティだ、アフガニスタンのアイデンティティを復興することだとおっしゃる。そこでアフガニスタン支援の第1番目に教育支援が上げられました。素晴らしい話だと思います。こうして、日本も、いろんな事と出会いながら、いろんな人と出会いながら、民族全体として学んでいくのでしょう。

それから、物事を知るということともに、美しい生き方をしている人と出会う機会をつくってあげるということも、子供達を自発させる道だと思います。そういう意味で私は「出会い」ということを申し上げているのですけど、出会いの機会をつくったところで、子供が関心を持ってくれるのは十にひとつだと思います。でもそれでいいと思います。親というものは、つくったチャンスを吸収して欲しいと欲張ってしまうところがありますけれど、出会ったこと、経験したこと、人の思い出、印象、風景というものは、必ずいつの日か忘れたことに思いだします。それが、10年後だったり、20年後だったりする時がある。むしろその方が多いかもしれないけれども、お母さんたちも、あまり焦らないことが大事だと思います。

 

 ■ 一人一人の学び方を尊重する

学校というのは、子供たちが、新しい知、新しい知識に出会う場所です。しかし、それだけじゃありません。学校の重要なのは、同じ世代の友達と会うってことなんです。だから、例えば、小人数学級構想というのがありますね。これは、教師の数を増やすということでは意味がありますが、なんでもかんでも、30人にすればいいのではなく、教師2人で多くの生徒をみるといった工夫も必要です。例えば、少なくとも1人友達ができれば学校行きたくなるし、生きる希望もわいてくるし。そうすると、出会いのチャンスということだけを考えると、なんでもかんでも小さい学校にしたらいいのか、小さいクラスにしたらいいのかと言うとそうではありません。

私と今一緒に、「コミュニティスクール構想」という本を出している慶應幼稚舎の金子舎長さんは、クラスの人数に、算数のときと、それ以外のときとかえている。きめ細かな工夫をしている。申し上げたいのは目的が何なのかということです。幅広い出会いが必要な時は大勢がいい。濃密で濃い出会いが必要な時は小さい方がいい。大事なことは、11で濃密にやることが大事な時期もあるだろうし、より多くの人に会って、色々なきっかけを探す時期もあるだろうし。子供によってリズムが違いますよね。例えば、幕ノ内弁当を食べるときに、食べ方って、人によってすごく個性がありますでしょ。ご飯だけ先に食べて次に、一気にお味噌汁を飲んで、次に、肉を食べてと、一種類ずつ集中していく人もいれば、ちょっとずつ箸をつけて、順番にぐるぐる回す人もいれば、一番大好物を最後に残しておく人もいれば、最初に食べちゃう人もいます。出会いというのもこれと全く同じで、その子によって、ご飯先食べちゃう子供もいれば、一口づつ、箸をつけながら食べていく子供もいます。どの食べ方でもいいんです。

ただ、今の学校教育っていうのはですね、小学校1年生の41日になったらみんな「さくらさくら」を歌いなさい、中学校1年生の4月になったらみんな「This is a pen.」と言いなさいということなんです。これが日本の教育を歪めているんですね。

20世紀は、自動車作る会社では、流れ作業が進まないから、みんなが自動車を一斉に作ってもらわなきゃしょうがなかった。「さくら・さくら」とみんなが斉唱する教育がベストだった。僕は高級車をつくりたい、僕はオートバイをつくりたいと、それぞれが勝手なことを言っていたら一向にまとまらないから、今まではみんな一斉に、北海道ではまだ雪が残っていて、桜咲くの5月の末か6月なのにも関わらず、沖縄ではもう散っているのにもかかわらず、東京にあわせて4月には、「さくらさくら」と歌わせているわけです。今、学校教育が色々な歪みをかかえているのはそういうことが理由なのです。で、今までは、子供一人一人が、日本株式会社の部品にすぎなかったわけです。例えば、トヨタで自動車作るといった場合に。鉄はどっから買ってくるんですか?新日鉄や日本鋼管からです。色々な電機部品はどこから買ってきますか、例えば、三菱電気から買ってくるわけです。そうすると、日本中の会社がずっと繋がっていて、今から、カローラ作るぞってことになると、カローラ用の薄い鉄板を日本新日鉄やNKKが作りはじめ、カローラ用の電機部品を三菱電機が作りはじめていたわけで、全部が連動してたんです。

しかし、人間はひとりひとり顔が違うように個性が違う、ひとりひとり食べ方が違うのと同じように学び方が違うわけですから、すると、今までの一斉教育でいくと、食べたくもないハンバーグを食べさせられるわけですね。給食食べないと廊下で立たせたりしています。これは拷問ですよね、人権侵害ですよ、よくよく考えてみれば。

この子はおいしそうに食べているのか、まずそうに食べているのか、今お腹が痛いのかな、顔色を見ながら、その子にとって一番おいしく食べられるものを、いろいろ集めて並べてあげましょう。そういう風な教育にそろそろ変えて言っていいんじゃないでしょうか。勿論、それ以上はしないで下さい。絶対に、箸でもって子供の口の中に押しこまないで下さい。並べてあげるだけです。ビュッフェでいいんです。あとは好きなもの食べなさいと。ビュッフェのメニューは多い方がいいです、和食もあった方がいいし、デザートもあった方がいい。大人がやることは、ここまでです。それ以上は過剰です。そこからはほっておいても、人間には、必ず自分に相応しいものをきちんと選んで学んでいく力が潜んでいますから。後は、じっと、見守ってあげてください。

 

 ■ 分厚い学習指導要領を薄く

自由に選択し、学び取っていく環境を作っていくことが大事でありますが、今の日本の学校教育というのは、残念ながら、まだ給食型です、押しつけ定食型です。文部省が学習指導要領というのを決めまして、沖縄から北海道まで「さくらさくら」を歌わせるわけです。私が今、取り組んでいる教育改革というのは、子供に一番近い人、それは親であり、担任の先生であり、隣に座っているクラスメートであり、あるいはクラブの顧問の人でありますが、子供の顔が見えている人が、その子に今何を勉強させたらいいか、あるいは勉強させなくていいか、学びの環境を現場で自由に決められる仕組みにしていくことであると思います。このことが教育改革にとって非常に大事なことだと思います。学習指導要領をもうちょっと簡単にしなければいけない。学習指導要領は分厚いより薄い方がいいんです。もうほんと、数ページでいいわけです。僕は円周率3についてどう思いますかとよく聞かれるんですが、例えば、鈴木君は小学校3年生で「円」にすごく関心を持っていれば、それを追求すればよいし、そうでないなら、みんなそれぞれの子供の状況によって最初は3と教えた方がいい場合は3と教えたらいいし、後で、3.14と教えればいいし、それは全部、その子の成長に応じて変えられるような教育にしていかなければいけません。歴史の教科書の話でもそうです。歴史的事実というのはなかなか難しい。どういう順番で、どのタイミングで、どこまで教えていくかは、全部子供によって違うはずです。それを一律に教科書、学習指導要領として決めちゃうことが問題なのです。勿論あるレベルのものは必要かもしれません。

教える教師についても、今は、大学の教育学部で同じように養成された教師から教わっているわけです。しかし、社会科なんていうのは、商店街の果物屋さんをやっている人に学校に来てもらって、値段っていうのはどうやって決めているのか、昨日のみかんがどれだけ売れ残ったか、いっぱい残ったら安くして、売りきれちゃったら高くしてって決めてんだよって、教えてもらう方が場合によればいいですよね。そうすれば経済とはそういうものかと子供たちもイメージしやすいわけです。で、先ほど申し上げました通り、学習指導要領が変わりまして、総合的な学習の時間というものができます。最終的には、全ての子供が一番いい学びの環境をオーダーメイドで作ってあげるのが理想です。しかし、それは、まず家庭がやらなければならないでしょう。公教育では、すぐにはそこまでできません。家庭教育と公教育の間に、NPOでも、スポーツ少年団でも、中間団体というふうに言いますけれども、そういう中間団体が、自発的に集まってきた人達だけで、合意したことをどんどん進めていけたら、とても効果が上がると思います。

「真・善・美」を教えましょうなんて僕は言っていますけど、これを学習指導要領に入れようと思うと大変なことです。皆様方のお子さんからだったら始めれると思うんですよね。集団学習として、学校が担うものよし、地域コミュニティが担うのもよし、その子の状況に応じた学びというものを、社会と公教育とそれから家庭教育と、分担して提供してあげるということが必要なわけです。しかし、公教育へのアプローチも諦めるわけではなくて、総合的学習の時間とは何かというと、教科書がない授業なんです。教科書がない授業が、初めて学校の中で登場するのがこの総合的学習です。教科書は使わなくてもいいです。教科書は教師が現場で独自に作るということです。総合的学習についての指導要領はほんとに薄っぺらです。それから、教える先生も、必ずしも教員免許を持った人じゃなくて、地域の果物屋の商店主に来てもらってもいいし、銀行について教える時には、父兄の中で、父母の中で銀行に勤務されている方は探せば、まず、見つかりますから、そうした方に来ていただこうじゃないか、こうしたことができる時間というものを、年間で100時間ぐらい作りました。これが上手くいけば、1割を2割、2割を3割にと、今後、増やしていくことができるわけです。総合的学習がほんとに上手くいくのかどうかというと、そういう方針変更の中で子供は計算が遅くなるかもしれない。失うものはあるかもしれない。最低限度のことはやっぱりできなきゃいけないし、それから、計算が好きな子供も育てていかなきゃいけないのです。それぞれの好きなこと、それぞれの関心を持っていることを伸ばしながらバランスをとっていくべきです。だから、決して塾も否定しません。20世紀型の読み書き計算を磨くのは、塾の方がパフォーマンスが高いことは明らかですから、だから別に私は塾を否定しているわけじゃなくて、塾も行かせたらいいと思います。非常に効率的な学習システムができていますから、読み書き計算はそういうところへいって、どんどん鍛えてもらう。そして、効率的に短時間で学力を身につけて、そこで余った時間を最大限利用して、今日申し上げた「生きる力」、いろんな人とコミュニケーションをする、いろんな人と出会うチャンス、そして判断力を磨くと、いうことを学校でも社会でもやっていくということが大事だと思います。

 

 ■ 人間関係のバランスを

少子化の中で、子供が人間関係上すごく閉塞しています。例えば、私が子供の頃はですね、父親と母親の兄弟が5人ずついましたから、その配偶者もいれれば、20人もの親戚がいるわけですね。それだけいれば、サラリーマンや銀行家もいれば、薬屋さんもいれば、学校の教師もいれば、役人もいる。いろんな親戚がいるわけです。法事に行けば、「おじさん、何のお仕事をしているの?」という話になります。そうすると、いろんな大人がいるなということが自ずとわかったのです。近所付き合いもありましたから、子供、いろんな大人と接触しながら育っていった。いつの時代も、母親というものは、子供の一番身近にいますから、つい口うるさく言ってしまうんです。それはしょうがないと思います。皆さんもお心当たりがあると思いますが。そういう時に、おじさんとかおばさんとかがいてですね、「まぁまぁ」とこう言ってもらえれば、それで子供はOKなんですけど、最近の子供は残念ながら、おじさん、おばさんが少ないし、めったに会わない。そうすると、子供にとっての大人はですね、とても少なくなってしまいます。我々の子供時代の大人は、親戚だけで20人、それプラスα30人ぐらい大人と色々触れ合っていました。しかし、今の子供にとって、大人というのは、お母さんと学校の先生、このふたりなんですね。お父さんは、全然帰ってこないし。それで、学校の先生も、別にこれは女性の先生がいけないと言っているわけじゃないんですけど、小学校は女性の先生が多いです。そうすると、だいたい年恰好の同じようなふたりの女性によってですね、その小学校生活が影響を受ける。しかし子供には多様な出会いが必要でありまして、それこそ老若男女バランスが大事です。子供が、御年寄、男性とも、もっともっと出会って、縦のつながりを実感することが必要です。それから、斜めの関係、となりのお兄さん、お姉さんというのも大事です。先輩や、後輩の関係ですね。それから同級生の横のつながり。この縦の学び、斜めの学び、横の学び、これら3つの人間関係をバランスよく創っていくことが大事なのです。

 

        日本の教育をよくするために

私は、多くの老若男女が集い、語り、共に何かを協働する。縦も横も斜めも。男性も女性も。老いも若きも。血は繋がってないけれど、心の親戚がいっぱいいる、心の兄弟がいっぱいいる。こういう中で、お子さんが、いろんな人と安心して出会っていく、そして兄弟、親戚になっていく。こうしたヒューマン・ネットワークが日本中に広がっていけば、日本の人づくり、知恵づくりもうまくいくのだと思います。私も、そのことに向けて、微力ですが、一生懸命頑張りますので今後ともよろしくお願いいたします。どうも御清聴有難うございました。

2002年1月吉日 
お母さんたちとの教育講演会にて 


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