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 現代の若者達に期待すること ≪in憲政記念館≫


 皆さんこんにちは。ご紹介いただいた鈴木寛と申します。今日は、皆さんのような素晴らしい若者の集いにお招きいただきましてありがとうございます。今日頂いたテーマは「現在の若者達に期待すること」ということですが、私は今の若者達に期待することはいっぱいありますので、さっそく、お話を申し上げたいと思います。
 

若者の可能性は無限大

 僕は、93年から95年まで山口県庁に出向していました。以前から明治維新に大変関心がありましたので、とにかく、いろんな維新の跡をめぐってみました。とりわけ、松下村塾は大好きで、2年間に20回弱も訪れました。皆さんも、ぜひ一度、松下村塾に行ってみていただきたいのですが、その広さは、わずか8畳間が二つです。松陰先生が後に明治をつくった若者達に教えていた期間はわずか2年に満ちません。わずか八畳二間で2年弱、ここで学んだ若者はわずか20名程度です。しかし、この塾で学んだ弟子たちが日本を変えたのです。これを期に、薩摩もみてみようということで、鹿児島にも何回か行ってみました。鹿児島は、鍛冶屋町というところで、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎など、ほんと近いところで一緒に生まれ育ったことがわかります。そうした若者たちの自主勉強会の塾頭みたいな存在が西郷さんでありました。薩摩と長州にあった二つの学び舎が、日本を変えていったということに大変感銘を受けまして、私は、95年に山口勤務を終え、東京に戻ってすぐに若者塾を作ろうと発起し、関東・関西の若い人たちとお付き合いが始まりました。関東は謎研。関西はアウトポストという名前になりましたが、定期的に集まって熱い議論を戦わせていました。ちょうどパソコン通信からインターネットに流行がかわっていったころでありまして、ネット通信とface to faceの対話をミックスしながら、若者たちとの集まりを主宰しました。20代サミットというプロジェクトも一緒に語っていたメンバーたちが中心となって立ち挙げました。日本各地で何かをやろうしている若者達が全国的ネットワークを組むことができました。おもしろいもので、そうした若者ネットワークから、関東ではITベンチャーがどんどん出まして、関西ではITベンチャーでなく、なぜか、NPOがどんどんでてきました。これはやはり、関西は阪神淡路大震災が起こったことと大いに関係があると思います。関西の若者達は、ベンチャービジネスよりも、ボランティアや地域づくりとかコミュニティーとかいうことに自然と関心が向いていったようです。

そうした若者たちとの活動を95年からずっと続けて、気がつけば7年たちました。始めた当初は、通産省にいましたが、次第に若者たちの人づくりにハマッテいきまして、まず、中央大学の非常勤講師をやり、さらに、人づくりに打ち込むため慶応大学に移りまして、多くの大学生の皆さんと一緒に語り明かす日々を続けて今日に至っております。

皆さん方、若者に対して僕が必ず言っていることは、「若者達の可能性は無限だ」ということです。是非「自分達の可能性は無限だ。」ということを信じてほしい。日本の若者は非常に有能で優秀なんですが、何が決定的に欠けているかと言いますと、それは「自らの可能性に対する自信」です。ペリー来航が1853年ですから来年150年なりますが、150年前の若者は今の若者より物を知らなかった。しかし、やはり自分達の可能性を信じていた。そのことが明治維新を突き動かした原動力ですから、皆さんには、自分達の可能性を信じて欲しい。

私この数年間多くの大学生と付き合ってきましたが、今の学生がとても受身になっていることがとても気になります。もっと、自立し自活をして欲しいと思います。

高校までの教育というものが、結局先生の黒板に書いたものを一生懸命ノートにとることばかり教えてきたことに原因があると思います。言われたことはすごく真面目にやる。やり過ぎるぐらいの嫌いがあるのですが、なかなか自発的には行動しない。是非、自分が将来何をしたいのか、そのために大学時代には何をしたらいいのか?自分なりに自分の学びというものをつくっていって欲しいと思います。
 

自分の人生をプロデュースできる社会に

 私はいま国会で文教科学委員会に所属しています。今、一生懸命、頑張っている仕事の一つに、希望者全奨学金制度の導入があります。先進国を見渡してみまして、18歳になっても親のスネをかじって大学に通っている国というのは日本だけなんですね。ドイツでもフランスでも生活費を含めて国が補填してくれます。大学の授業料はフランスとドイツは無料です。イギリスの場合は授業料20万円ですけれども約半分の方が免除されています。生活費のほうも全部希望者全員が奨学金を借りることができます。アメリカでも7割ぐらいが奨学金でまかなわれ、残りの3割も自分で稼げています。勉強と関係ないアルバイトで稼ぐ日本とは違って、アメリカの場合カレッジワークといいまして教授のアシスタントとか、そういう勉強につながるカレッジワークをすることで生計を立てることができます。いずれにせよ、国や社会が学ぼうとする若者たちを応援する仕組みができあがっていて、若者達は自立して自分の生活費と学費を確保して自分の学びを自分でプロデュースすることができます。これは僕が皆さんに期待する自立という意味で大変大事なことでありまして、将来のために何を自分は学ぶのかという選択は18歳になったら自分ですべきなんですね。親から学費を出してもらっているものですから、自分は他の大学に行きたいのに親が言うからしょうがないということになってしますのです。皆さん、大学以降は是非自分で人生の選択をして頂きたいと思います。やっぱり自らの人生ですから自分の人生は自分でプロデュースするんだということを自覚していただきたいと思います。その大前提として自分の生活費・自分の学費というものは親からではなくきちんと社会から借りられる、貰えるという社会制度を作っていくということが、自分の人生を自分でプロデュースできる若者をつくるために、非常に重要だと思い、がんばっています。
 

世界の新しい潮流とインターネットの出現

 昨日は、経済の勉強会に参加していまして、中国が大変な勢いで伸びているという話を聞いてきました。昨年の11月、私は中国の朱鎔基首相と北京でお会いし、中国の経済状況をつぶさに見て参りましたが、日本の経済不振に引き換え中国はもの凄い勢いです。確かに凄いです。成功の理由は、中国の若い人達はよく勉強する、ということに尽きます。例えば、北京大学・清華大学に行きますと昼休み、食堂では、学生達は左手に本を、右手でお箸やスプーンで食事をするというように、寸暇を惜しんで勉強しています。それに引き換え日本の大学生は全然勉強してないと、こういうことが引き合いに出されるわけです。そのことは、私も事実と感じていまして、日本の学生もそうした批判を受け止めていかなければと思います。このまま行くと日本は経済的に駄目になってしまうでしょう。そのことはかなり信憑性がある話だと思います。

しかし、今日、私が皆さんに提起したい問題点は、単に経済競争に勝つか勝たないとかという次元で問題を捉えてはいけないということです。正直に申し上げると、この数年、日本経済は残念ながら壊滅的だと思います。しかし、この経済が壊滅していることを、むしろチャンスにかえることができるかもしれない。その鍵は、皆さんにかかっています。

何を申し上げたいかと言いますと、今21世紀に差し掛かった所でございます。情報社会論という学問が私の専門ですが、どういった学問かといいますと、19世紀・20世紀というのは近代国民国家の時代と言われていますが、21世紀は情報文化社会の時代になります。その情報文化社会とはどんな世の中なのか研究する学問です。今までは、産業社会の時代でした。19世紀思い起こしていただければいいのですが、日本も含め多くの国が富国強兵・近代化をめざしました。まずはフランス、イギリス、アメリカという国から始まりましたが、元をたどれば、1789年のフランス革命、1776年のアメリカの独立戦争などを契機に、市民革命が成功し、市民社会が生まれました。そして、近代社会ができました。そして近代社会に追い着こうとして、ドイツが、ロシアが、そして、日本がいわゆる西欧化=近代化をめざして、頑張ったわけであります。19世紀は武の時代、20世紀は富の時代でしたが、私はこの近代国民国家システムというものがそろそろ終わるなと感じています。そして、その終焉を加速させるのがIT革命・インターネットの普及なのです。

インターネットといいますのは1969年にアメリカ軍が開発した通信技術であります。昔ソ連という国がありましてアメリカとの冷戦構造にありました。お互いに核兵器を持って、ミサイルの矛先をお互いの首都ワシントンとモスクワに向けていました。その時代にソ連からアメリカが爆撃された時でも、通信が麻痺しないような通信システムとして考えだされたのがインターネットです。1969年にアメリカ軍に軍事用インターンネット網が整備されました。1970年代には、この技術は超秘密の軍事技術でありました。1980年代に入りますと、米ソ関係はデタント=緊張緩和の時代に入りまして、アメリカ政府から研究費を貰っている学者はインターネットを使ってよろしいということになりまして、アメリカの学者コミュニティーでインターネットが利用され始めました。そして1989年にベルリンの壁が崩壊しまして、その後ソ連という国がなくなって核戦争の脅威がなくなりましたから、アメリカ政府はインターネットという通信技術を民間に完全開放しましょうと、と言うことでインターネットの時代が1989年のベルリンの壁が崩壊したことを契機に始まったわけです。これがインターネット時代の幕開けにつながります。

 インターネット革命の本質とは何でしょうか?一言でいえば、それはメディアの個人化・民主化ということです。実は、私は10月からインターネットTV局、スズカンTVというインターネット・テレビ局をやっておりまして、世界中から見ていただくことが可能です。最近はマスコミ関係者を中心によく見ていただいているようです。つい数年前までは私のような個人が世界中に広がるテレビ放送網を立ち上げることは不可能でした。衛星放送をやろうとすると、最低でも100億円かかりました。お金だけではだめで、何百人という技術者をかかえなければできなかった。インターネットの普及によって「メディアのパーソナライゼーション」が起こった。今までは大資本しか手にできなかったマス・メディアが個人のメディアになる。「メディアの民主化」ということもできます。私のインターネットテレビ局開設費用は100万円です。100万円でしたら皆さんのボーナスを3人くらい集めればできます。要するに、普通の個人が自らテレビ局を立ち上げるような時代になりました。

今、インターネット・テレビ局をやっているのは、国会議員では私ぐらいしかいませんが、ホームページは、誰でももっていますね。新聞社や雑誌社やラジオ局までは、すべてh人が自前で持てるような時代になったということです。そして、これからはテレビ局もできるということになります。このようにメディアの変化が、必ずや政治や社会の変化を引き起こします。ラジオの普及とともにルーズベルト大統領が登場し、テレビの出現がケネディ大統領を登場させました。インターネットが登場したことにより、時間と空間を超えた人達とのコミュニケーションを、今までは大組織・大資本しかできなかったものが、個人が出来るようになった。これからは、番組のコンテンツ、中身の勝負ということになります。インターネットの登場から10年、本格的にメディアのパーソナライゼーション・民主化が起こり、ハイパーコミュニケーション革命が引き起こされていると言うことです。
 

 今こそ新しい時代を切り開くチャンスの時

今まではまさに富のゲームの時代でした。もう少し申し上げますと松下幸之助さんはPHP財団というものをおつくりになった。大変すばらしいと思うのですが、PHPとは何の略かと言うと、Peace and Happiness through Prosperity。要するに経済的繁栄により平和と幸福が実現されるという意味です。そして、この経済的繁栄というものを、一部の人だけでなく、すべての人々に行き渡るようにしようという素晴らしい哲学が松下哲学です。20世紀はこれで良かったわけです。もしも、松下幸之助さんが今生きておられたらどうおっしゃるのかな?といつも私なりに考えてみるのですが、おそらく幸之助さんは21世紀はPHCだとおっしゃると思うんです。PHC即ち、Peace and Happiness through Communication Collaboration Creation です。要するにコミュニケーションして、次は Collaboration=一緒に何かの共同作業をする、そして一つのものをCreate する。3つのCCの3段活用なんですが、インターネットの普及により、時空を超えたコミュニケーションが一挙に簡単になった。それによって、ハイパーコミュニケーション革命を人間の共生と協働のために生かしていきたいと思います。

今まではhaving 何を持っているかと言うこと・所有ということが重要だったんですが、これからbeing=何であるのかということが重要になってきます。あなたは何であるのかということはコミュニケーションの中でしか確認できませんから、要するに色んな人とコミュニケーションしていく中で、いろんなことに気づいていく。持っている・持ってないということが20世紀の富のゲームでは、とても重要な概念でしたが、21世紀のコミュニケーションの時代には、その人が何者であるのか、その人がどういう風な生き方をしてきたのか?今後どんな風に生きていくのか?どういう存在であるのか?ということが大事な時代になっていきます。こういう、大きな歴史の大転換期に我々はいるんだと言うことを皆さんにもご理解いただきたいと思います。

90年代は失われた10年と言われています。まさにhaving=所有の戦争において、所有の競争において、1945年の敗戦から立ち直り、日本は奇跡的な勝利を収めました。1980年代には、Japan as NO.1 といわれ日本は富のゲーム・経済のゲーム・物質文明のゲームにおいて一度頂点に達しました。しかし、この10年間で、経済ゲームにおいて再び敗北してしまいました。第二の敗戦とも言われています。例えば、国債格付けがですが、昔はトリプルAでありましたが、トリプルAがどんどん下がりまして、ダブルAからシングルA+になってしまった。

しかしですね、この失われた10年、経済的な敗北というのをもう少しポジティブに(=前向きに)捉える事はできないのか?僕はもっと前向きに捉えていきたいというのが、今日の皆さんへのメッセージです。

もちろん経済問題に絡んで国がしっかり対応しなければいけないことはいっぱいあります。例えば、18歳の春は二度と戻ってこないものでありますから、教育というものが、being の時代においても何よりも大事でありますから、お父さんのリストラなど、本人には何の責任もない理由で教育の機会が奪われてしまうということは大変に可哀想な事であります。これは政府が何とかしなければなりません。だから、私は、奨学金制度の充実に懸命に取り組んでいます。

 敢えて、私は皆さんに申し上げたい。「そろそろ富のゲームから卒業しようじゃないですか。」富のゲームに、アメリカのブッシュ政権などは未だにこだわっています。同じアメリカでも、ゴア前副大統領は環境とか教育に価値をシフトしています。イギリスのブレア首相も教育に重点をおいていいます。21世紀のパラダイム=環境や教育に移行しようとしているゴアやブレアのような勢力と、もう1回20世紀の価値体系に戻そうとするブッシュのような勢力に、先進国のなかでも、意見がかなり割れているわけです。特に、地球環境の京都議定書等をブッシュは否決しているわけですし、ABM制限条約も離脱するなど、20世紀の富の時代、19世紀の武の時代に逆行しようとする動きがブッシュ政権ではますます顕著になっています。

私自身は、20世紀と21世紀の価値観の狭間のなかで、21世紀beingの時代に早く移行したいと思っている立場です。ゴアさんやブレアさんの側です。その時代には、競争より共生が大事なコンセプトになります。私達は貴重な10年間が失われてしまったということをむしろチャンスとすることによって、富のゲームの呪縛から早く卒業して、新しい21世紀まさにPHCの時代、ハイパーコミュニケーションの時代、日本が他の先進国に先駆けて、新しい時代のパイオニアになれるんだと信じています。その挑戦に是非、皆さんの力が必要だということです。
 

アイデンティティーの危機

このことは実は僕は10年前ぐらいからずっと考えているんですけれども、いまの日本の問題は、経済競争力のクライシスではなく、アイデンティティーの危機だと思います。経済成長率で中国に負けてしまうとか、アメリカよりもハイテクが遅れているなどといった経済競争力の危機だと多くの人々は言っていますが、それは違うと思います。むしろ問題なのは、日本のidentity crisisだと思っております。10年ほど前、僕は同じ年に、ヨーロッパ、中国、米国を視察して回ることができました。10年前のヨーロッパは、ちょうど今の日本と同じような状態になっておりまして、失業率が10%を超え、経済成長もマイナスでありました。しかし、フランスに行っても、ドイツに行っても。イギリスに行っても、イタリアに行っても、みんな明るく生きているわけです。失業率が10%を超えてですね、経済はマイナス成長でした、当時はインフレですから、スタグフレーションが進行していましたが、みんな明るく前向きに生きている。日本だったら大変です。しかし、ヨーロッパは明るい、その理由は何か?考えました。答えは、アイデンティティーです。ヨーロッパの人達の多くはアイデンティティーをきちんと持って生きている。経済が多少悪くなっても、それは山あり谷ありだ。今は、谷ありの部分でしょうがないな。と言う感じなんですよ。しかし、アイデンティティーはしっかりもっている。例えばフランスというのは、フランス人というのは自分達が世界一のアートの国であるという誇りを持っている。ドイツに行くと、ドイツ人は世界一の環境の国だ。グリーンの国だと言うわけです。ドイツでは、例えば、何十年かに1回氾濫するライン河の堤防がありまして、コンクリートで護岸工事をして氾濫を防ぐのか、それとも、それは承知で緑の河川敷を残すのか。大議論して、何十年かに1回水没してもいいからコンクリートの護岸を造らずに緑の河川敷を残しましょうという結論を市民たちが話し合ってだすのです。日本とドイツどちらがいいといっているわけではありません。日本でいう洪水の概念とちがいます。向こうはじわじわと水が来ますから避難する時間もありますし、ちゃんと逃げることができます。日本とドイツは同じように議論はできませんけれども、しかし、どっちを選ぶのかという大議論をして、アイデンティティーは環境だということで護岸工事をしないという結論に達する。あるいは、ドイツは10年前から経済効率性を下げてでも分別回収をきっちりとやっています。また、ある町では自動車を街中に入れさせず、郊外に車を止めて、あとはバスやトロリーなどの市内交通を徹底する。地域ごとに違うのですが、経済成長至上主義を上回る価値として、ちゃんとエコロジーということを国や地域におけるにアイデンティティーとして大事にしてきました。イタリアにしてもデザインの国として、フェラーリの国だ、ベネトンの国だということでデザインに対する誇りとアイデンティティーをきちっと持っているわけなんですね。イギリスにおいてもそうでありまして、英国人はシェイクスピアやニュートンの末裔だとの誇りをもっていて、どんなに財政的に大変でも大英博物館の整備を着実に進めていました。例えば、恐竜館や宇宙館や産業革命館とか、そこに行きますと、子供達がほんとに大勢来て一日中遊んでおりまして、そこでイギリスの先人達がやってきた産業革命とか技術革新を学ぶわけです。エジンバラと言うところは演劇のメッカですが、何故イギリスの演劇が盛んかといいますと、イギリスの演劇人のほとんどは失業保険を貰って、食いつないでいます。だから、必要最低限の生活ができています。私も駒場小劇場で芝居をしていたからわかるんですけれども、芝居乞食と言う言葉がありますが芝居というのは本当に乞食をやってでもやりたいぐらい面白いんです。英国では、ちゃんと失業保険で役者たちを支えることに対して国民は納得・同意しているのです。日本でやったらどうなるのか?芝居をやるために身をもち崩した人間に、失業保険を5年10年20年出し続けたら、それこそ国民的支持・同意は得られない。しかし、イギリスでは、我々はニュートンとシェイクスピアの末裔なんだ、だから、演劇人を大事にするんだ、多少経済がどうなろうと、アイデンティティーを貫徹することのほうが大事だということです。

今の日本はアイデンティティーを喪失している。経済は非常に大事なツールであります。私もその重要性を否定はしません。しかし、それは目的ではなく手段です。日本のアイデンティティーは何ですか?と言う質問に対して、応えられない。それを個人個人が作り出すこと、探し出すこと。そして個人が集まって企業なり学校なりグループなり地域などを作っていくわけです。そして地域が集まって国を作っていくわけです。もう一回このアイデンティティーを、皆さんの中で作り上げていかれるよう大いに期待します。
 

いかにアイデンティティーを確立するか

こういう話をすると、どうしたらアイデンティティーを確立できるんですか?とよく聞かれます。「様々な生きざまに出会うってこと」だと思います。文字通り旅に出てくれても構いません。アフガニスタンに行ったらみなさんと全く違った人生を生きている同じ世代がいるし、中国にもいろんな人がいる。アメリカにも。そうした人たちと実際出会う、できれば、その人の生きざまに実際関わってみる。さらに、そういう人たちと新しい人生を一緒に生きてみる。それから、単に空間的な旅だけではなく、先人達の人生、明治維新でもいいですし、あるいはフランス革命でもいいですから、過去の人たちがいろんな生きざまをしていますから、是非、歴史的に出会ってほしいと思います。僕は伝記が好きです。特に、伝記を携えながらその現場にいくのが大好きなんですけれども、皆さんもいろいろやっていただきたいなあと思います。

日本のアイデンティティーについての僕の提案は、日本は「メディア・ステート」になるチャンスがあると思っています。このチャンスを物にできるかどうかは皆さんの双肩にかかっていると思います。21世紀は先ほど申し上げたようにマルチ・カルチャリズム、文化多元主義の時代になります。インターネットの普及やコミュニケーションのハイパー化によってですね。世界中否応なくグローバリゼーションが進みます。皆さんもテレビなどをみていると、世界中にはいろんな人がいるなあ、いろんな考えの人がいるなあ、いろんな文化の人がいるなあと思われると思います。どの文化も、どれが正しく、間違っているかとかではなくて、どれも尊重されて存在するべきです。それらの存在価値を認めるというのが文化多元主義という考え方であります。私達は、文化多元主義の時代を生きていかなければいけなくなった。こうした時代の文化と文化の媒介者に日本がなることができると思います。その秘訣は、多神教的伝統を日本がもってきたということに潜んでいます。
 

これまでの世界とは

今まで20世紀というのは、近代化ということが正しいことであり、近代化していないのは遅れている、間違ったことだとされてきました。しかし、その近代自体が揺らぎだしているのだと思います。日本という国は、何とかして近代化しようとした、西洋が作り上げた物差しに何とか合わせようとした。しかし、日本は十分に近代化されてないとか。日本には近代市民社会ができていないとか。日本は自己責任が徹底されていないとか。日本の市民社会は遅れているという言い方がされ、そのことを日本自身も問題にしてきました。

しかし、例えば、1979年までのイランには、パーレビ国王という国王がいました。パーレビ国王は西洋型の軍服を着まして、イランの国をどんどん近代化した。しかしイラン革命でホメイニ氏が勝利し、近代化という路線が誤りだったということで、イスラムによるアンチ近代化革命が始まった。このあたりからイスラム原理主義というものが勃興してまいりまして、単に近代化と言う物差しだけじゃない、イスラムには、まったく異なった価値体系がある。20世紀までは、全部近代化して、市場メカニズムで、資本主義で、市民社会で、いけると思ったんですが、結局駄目だったということになりました。近代化とは、違う価値観をもったイスラムが今隆盛を極めています。

近代化のコンセプトの一つに中央集権があります。江戸時代のような地方分権型の幕藩体制を、廃藩置県によって、中央集権化していこうということなんですが、中央集権化をどんどん推し進めた結果、世界中のマーケットがニューヨークにおいて繋がりました。すべての安全保障情報が、ワシントンの国防省ペンタゴンに全部集まるようになったんですね。近代国民国家システムの中心は、市場システムと官僚システムなんです。官僚システムの最たるモノが軍隊です。世界一強い軍隊がアメリカの国防総省なんですね。そこが、揺らいだ。それが何によって揺らいだか、昔は、第二の大国ソ連によって一撃が与えられるだろうと考えられていた。ですから、米国は他の国家による侵略に対する備えは万全にやりました。そして、ソ連がなくなり、まさに、アメリカは無敵になった。しかし、この近代国民国家システム・中央集権システムに大きな揺らぎを与えたのは、ソ連ではなかった、国ですらありませんでした。近代国民国家に揺らぎを与えたもの、それは、タリバン=神学生達、要するにイスラム原理主義学校卒業生の同窓会がタリバンなんです。近代国家システムのシンボルであるNYとワシントンを脅かしたものは、国ではなく同窓会ネットワークだったということです。ここに来てタリバン・アルカイダの暴挙が可能になった理由はインターネットの普及です。アルカイダの実態は、世界60カ国に広がる、自立・分散・協調型のネットワークなんです。今までは、分散・点在しているものというのは力がありませんでした。大きなことは何もできませんでした。しかしインターネットというパーソナライズされたコミュニケーション手段をすべての人々が持つことによって今までは分散していた烏合の衆だったものが、協調することができるようになった。今後は、中央集権システムに対して、自立・分散・協調システムが次第にとってかわることになるでしょう。ですから、中央にいる国家というものが、どんどん揺らいできます。その結果、近代国民国家システムというものが、次第に終焉を迎えることになるでしょう。

確かに、9月11日の事件は、インターネットという新しいメディアが悪の目的のために使われてしまったことによって起こってしまいました。メディアというのは良いことにも、悪いことにも使われてしまう。そこが難しいし悩ましい。ルーズベルトがラジオを使いこなしたといいました。実は、ナチス情報相のゲッペルスも、ラジオを使いこなしました。その結果、ファシズムによる悲劇を生みました。

今、我々は、インターネットという強力な手段を手にしました。これを悪の目的でなく、健全な精神、健全な目的、健全な社会づくりのために使っていきたい。そのための善良なるネットワークを作っていただきたいと思います。悪の自律分散協調ネットワークを、もはや中央集権国家だけの力で抑えることはできません。それを抑えられるのは、善の自律分散協調ネットワークなのです。だから、そのネットワークこそ広げていきたいと僕は思っています。
 

 21世紀を生きる若者へのメッセージ

日本は、最も文化多元主義的な国の一つだったと思います。多神教的文化風土を守ってきたのが日本であります。日本古来の八百万の神信仰というのは、すべての人には存在価値がある。路傍の石にも神が宿っている。存在しているものにはすべて価値があるんだという多神教的な考えです。西洋近代主義とイスラム原理主義のどちらが勝つか?実は、この戦いに勝ち負けはありません。一神教同士の戦争をしている限り、21世紀に平和が訪れることはありません。今、必要なことは共生です。マリチ・カルチャリズムとは、その前提としてすべての存在をまずは認めるということなんです。そして、すべての存在同士がコミュニケーションしていく、次にコラボレーションしていく。コラボレーションというのは違った才能が一緒に協働して、一人ではできない新しい価値創造をすることをいいますが、そうした21世紀のマルチ・カルチャリズムを実現していけるのは、実は、日本ではないかと最近感じています。メディア・ステートの提案も、そうしたコミュニケーション・コラボレーションの媒介を日本ができるのではないかと私自身は思っているからです。実は、戦後、日本の経済成長を支えたのは加工貿易です。世界中から一番安くて良質な原材料を輸入し、それを加工し、製品を輸出するということをやってきました。日本でいろんなもの同士をくっつけてきたのです。原材料だったものを、今度は、情報や文化に換えて、情報の加工貿易をすることは可能です。まさに、日本が情報文化を編集するのです。

日本は、融通無碍で、いいかげんで、曖昧だと非難されてきました。しかし、どんなものでも拒まず一旦は受け入れるということもメディアとしては重要なことです。日本は、あれもこれもとりあえず受け入れてしまいます。そうなると方針が定まらず曖昧になるんです。しかし、実は21世紀マルチ・カルチャリズムの時代には、これもポジティブにとらえることができます。

これからのキーワードとして「熟議の民主主義」というキーワードがあります。議論を熟すことによって、立場は違へど、議論や直接対話を継続し、煮つめ熟することによってお互いの立場の違いを認識し、その上で新しい知恵を見出していこう。この熟議のための公共圏=フォーラムを作っていくこと、まさに、メディアの仕事です。私はそういう意味での新しい時代のプロデューサーに皆さんがなっていただきたい。多くの多様な価値観、多様なアイテムを持つ人達が集まるフォーラムを作っていく、それをコーディネイトしていく、あるいはそれを編集していくということを、是非やって頂きたいなと思います。

これこそまさに、1938年にフランク・フックマン博士がロンドンで始められたこと。文化や立場や民族の違いを超えて直接対話をやっていくんだという運動なのです。ですから、1938年からやってこられたMRAの運動というのはですね、21世紀が必要としている文化多元主義、そこでの準備、そのための公共圏の設定ということを先行してやってこられた。この運動にご縁を得た皆様方が、この運動を盛り上げていただくことは、本当に大切なことだと思います。

私は昨年秋の臨時国会で、文教科学委員会総括質疑の一番バッターに立たせて頂きました。その時にユネスコの憲章を引用させていただきました。皆さんご存知だと思いますが、「戦争というのは人の心の中で生まれるものであるから人の心の中に平和の砦を築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因でありこの疑惑と不信のために諸人民の不一致がしばしば、戦争となった。」というのが憲章の導入部です。ユネスコというのはまさに心の中に平和の砦を築こうではないか。ということで教育が大事だとの認識のもと設立されたのです。9月11日のテロも、結局はアルカイダ、あるいはタリバンの行ってきた洗脳教育が問題なんですね。命の大切さ、生けとし生けるすべての存在の大切さを説いていくという教育、そしてその教育は一方的に何か押し付けられるのではなく、色々な人が対話を続ける中で、お互いの命の尊さ・自らの命の尊さというものを感じ取っていくということが大切です。これが、私が目指す「命の教育」です。

私は是非こうしたことのために、今日お集まりの皆様が、それぞれの分野で、ご活躍されることは心から期待しています。歴史というもの、新しい時代というものは、政治家だけでつくることはできません。文化人、経済人、教育人、そしてメディア人、ありとあらゆる分野の人のコラボレーションが必要です。私はフランスの文化大臣をやったアンドレ・マルローが好きです。彼がいたからこそ、フランスのド・ゴール革命が成功しました。ド・ゴールだけではフランスの再興はできなかった。インドのガンジーには、タゴールがいた。皆さん、それぞれの天分・天命というものをまっとうして頂くということが大切です。どの分野にも新しい21世紀を作っていくという仕事はあります。どの分野が欠けても新しい時代の創造はできません。それに、新しい時代というものはそうそう簡単にはできません。今、毎日テレビで永田町の非常に醜い部分が放送されていて皆さん本当に嫌になっちゃっているかもしれません。私も若いときホトホト嫌になって、シドニー大学の教授にでもなって、移住しようかと思った時もありました。しかし、海外で住むというのは、そんなに簡単なことではありません。病気になったらすぐわかります。こんなに心細いことはありません。頭ががんがん痛いとか、歯がしくしく痛いとなかなか英語でいえませんよ。ですから、皆さんの多くは、私も含めて、この日本で人生を送っていかなければならないのです。であれば、この国を何とかよくしていきましょう。諦めては何も進みません。

私の好きな政治家に孫文という人がいますが、彼は、辛亥革命を成功させるのに39回も決起しているんですね。歴史っていうのは、これぐらいエネルギーのかかるものなのです。明治維新だって1853年から少なくとも第1期だけで15年ぐらいはかかっているんです。今回の革命も、10年20年30年ぐらいかかるということです。39回トライしないといけないのならば、今、三分の一くらいまできているのでしょうか。私は皆さんも一緒に手伝っていただいて、真ん中の三分の一を担当しますから、最後の3分の1ぐらいは皆さんにやっていただくことになると思います。すべての存在が大事にされ、すべての存在が共生・共存できる舞台を皆さんと一緒に創っていきたい。そういう意味で、皆様方に大いに期待をしているのであります。是非、自らの可能性を信じて頑張っていただきたいと思います。

羽田元総理が若輩者の私のために激励に駆けつけて下さったときに、「歴史はいつも無名の若者によって創られてきた。」とおっしゃって私をいつも応援していただきました。今でも本当に感謝していますが、私は、この言葉をそっくりそのまま本日お集まりの皆様方に贈りたいと思います。新しい21世紀を是非ご一緒に創っていきましょう。どうもご静聴ありがとうございました。
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 <質疑応答>

質問(女性の方):「若者に希望に満ちたメッセージをどうも有り難うございました。私は先生の今のお話をお聞きして、意見がまとまっていないんですけれども、先生が考える日本のアイデンティティーに対してズバリもう一度教えてほしいのですけれども。」

スズカン:はい、僕はメディア立国ということを言っています。メディアというのはマスメディアとは違います。この場合のメディアというのはメディエーターとその場でありまして、メディエーターというのは「お仲人」ということですね。知らない人と知らない人を家に呼んできて出会わせる。皆さんは、まだ、「お見合い」なんてしたことないと思いますが、お仲人さんは、こちらの男性はこれこれこういう人でこういう素晴らしいところがあります。こちらの女性には、こういう良いところがあります。是非、会って一回話してみましょうよ、というのがメディエーターまたはメディエーション(仲介)というものなんですね。

日本というものは多神教です、基本的にタブーなく、いろんなことを受け入れます。今は、豚肉を食べてもいいですし、牛肉を食べてもいいですよね。イスラム教でしたら、豚肉を食べられないですよね。日本というのは面白くて、何も排除しないんです。メディアとしては、何も拒まないということはとても大事なことなんですね。何も拒まないから、Noと言えない日本人とか、あいまいな国日本とか、揶揄されてきた、何も拒絶しない、何も排除しないということは、これまでは、方針がはっきりしないと批判されたんですね。しかし、メディア論的にいうと、実は、それが長所になる。「どんな人でもどんな文化でも一回は受け入れるんだ。そして、吟味してみて、文化同士の出会いの場を作る。」というのがメディアの特徴なんでね。僕は日本人のこの多神教的な文化というものがこれから日本が世界のメディアになりうる可能性を持っていると考えるわけです。

そして、メディア立国になれる可能性のもう一つの理由は「日本語」です。公用語を英語にしようという人達がいるんですね。もちろん英語を一生懸命勉強することは大事ですけれども、公用語というのは、とんでもない話です。日本語というものは大変素晴らしいものです。どう素晴らしいのかというと、漢字とひらがな・カタカナが併用されているでしょ。漢字は表意文字です。絵文字からできていて、その形が意味を表す文字なんですね。それで、ひらがなとカタカナは表音文字です。形には、意味はない。日本語は、表意文字と表音文字が合わさっている言語です。中国語は表意文字だけです。逆にアルファベット圏は表音文字です。表意文字の特徴は、形に意味があるので、意味の理解が早くできるということです。しかし、表意文字だけですと、新しい概念を取り込む時に柔軟性に欠ける。例えば、中国語の場合マクドナルドなどは変な当て字を用いているでしょう。日本語の場合はあまり考えなくて、カタカナで「マクドナルド」と書けばいいわけでありまして、新しい概念の取り入れ方が、表音文字があると便利ですね。しかし、今度は全部表音文字ばっかりですとこれは読むのが大変です。全部ひらがなばかりの文章なんて読んでいられないでしょう。しかし、アルファベット表記ということはそういうことなんですよ。全部ひらがなの文字が並んでいるのと同じだ、ということですね。そういうわけで日本語は表音文字と表意文字を合わせて目から耳からと両方瞬時に理解できるという意味で、マルチメディア・ランゲージですよ。こういう言語になっているのは韓国語と日本語だけだったんですけれど、韓国語はハングルを優先して使用したため表音文字中心にしました。しかし、金大中政権は、そのことに気付いて漢字復活方針を出してきましたね。

日本勢が今世界で活躍しているのは、テレビゲーム・アニメ・漫画でしょう。何故、これらが世界に通用するのかというと、日本語に大いに関係しています。一朝一夕に漫画・アニメ・テレビゲームで日本勢が勝っているわけではないんです。江戸時代にも、同じ絵の中に「絵と字」が一緒に書いてある北斎漫画始め数多くの浮世絵がありました。日本の浮世絵にヨーロッパの印象派はビックリしたわけです。浮世絵の伝統があってこそ、今のアニメ・漫画があるのです。その浮世絵とて、一朝一夕にできたわけではありません。そのオリジナルは、平安時代・鎌倉時代の古今集、新古今集です。また、源氏物語絵巻もそうです。まさに絵と字を一緒に記すという伝統を持ってきたことがアニメ・TVゲームの活躍の源になっています。

このように表音文字と表意文字の双方を1200年間使いこなし、多神教的考え方を受け継いできた日本人は、マルチメディア時代向きの感性をもっています。どの国、どの文化圏にも、芸術的にすぐれた人材はいます。しかし、大事なことは、一部ではなく、多くの人がそうした感性をもっていることなのです。多くの人が芸術や文化を評価する目をもち、いいものを応援していければ、文化や芸術を評価しうる成熟したコミュニティや市場を育成することができます。そうした場が日本にできれば、世界中から、いろんな才能が集まってくる。そして、いろんな才能と才能が出会って、さらに、新たな価値ある文化・芸術が生まれる。それが世界に発信されれば、また、世界中から、いろんな才能が集まる。こうした好循環ができればいいなあと思っています。これが、私の、メディア立国論です。
 

◆質問(女性の方)「近代国民国家システムがゆらいでくるとのお話でしたが、これからはどんな社会になるのですか?官僚制はどうなりますか?」

◆スズカン:近代国民国家システムとは、一言でいうと、「アメとムチでもって人々を社会にとってのぞましい方向に行動させ、社会問題を解決していく統治システム」です。これからの情報文化社会においては、アメとムチではなくて、「情報」によって人々が社会にとって望ましい行動を、自発的に行い、それによって社会問題が自ずと解決されていくようになります。人々を自発させる方法は、二つあって、一つは洗脳で、もう一つは学習と共感です。私は、もちろん学習による自発をおこしていきたいと思っています。直面している社会問題の本質・背景・歴史などをまず学び、解決への道筋を理解し、そして、自らの社会のおける役割を理解し、それを実行する。そして、自らの自発的行動が、社会全体にどのような波及効果をもたらしたのか、その結果を再学習し、それに、共感が加わることによって、そうした一連の自発的行動が進化していくそんな動きを創っていきたいと思っています。私は、自発のためには、美意識や美学というものがかなり大事だと思っていまして、学ぶべきは、単に知性だけではなく感性も同じくらい大事だと思っています。

そのために、シンクネット・ウエイとか、シンクネット・アンド・ドゥ・システムと呼んでいますが、そうした学習・思考・感じる・決断・実行を、人々がオープンにネットワークしながら、その知恵と経験と汗と情熱と信頼をかき集めて行っていくという社会システムづくりをやっていきたいと思っています。

 近代国民国家システムにおいては、ムチの担い手として軍隊・官僚機構が、アメの担い手として株式会社という仕組みが存在し、この二つが、社会の主要プレイヤーでした。しかし、情報文化社会になると、この二つは、社会の主役の座から降りることになると思います。では、それに代わって何がでてくるかというと、NPOとか、NGOということになります。しかし、このNPOとか、NGOというのは、まだ、なんだかよくわかりません。つまり、ネガティブ・デフィニションと言うのだけども、NPONGOも定義の仕方が、「○○ではない。」というふうになっている。つまり、NPOは、営利組織ではない組織。NGOは、政府組織ではない組織。皆さんの世代の任務は、こうした、情報文化社会における主役となるものが何なのか?それを、ネガティブではなく、ポジティブ・デフィニションにしたい。つまり、「○○である」とその実態をいいきりたいということです。そうした、次なる主役の本質を見出し、そして、次なる主役をどんどん作り出していくこと、それが、私も含めた、これからの世代の役割だと思います。僕も、完全には、わかっていないのですが、いくつかヒントをいいますと。まず、コーポレーションのためではなく、コラボレーションするための組織だということです。コーポレーションは、同じ作業を共同でやることによって、一人でも作れるものをより効率を上げて作り出す活動です。それに対して、コラボレーションは、一緒に、実験をやるという意味です。すなわち、異なった才能が集まって、一人では決してできないことを、協働することによって可能にする活動のことです。特に、いろんな角度から、知恵を出し、真理を見極めるための仮説を創り、それを実際に試してみて、その結果をフィードバックしながら、試行錯誤しながら、より真理に近づいていくことです。組織のイメージとしては、劇団とか、オーケストラとか、大学などが近いと思います。大学は、ユニバーシティといいますが、その語源は、宇宙ですよね。要は、あらゆるものが共存している。スタンフォード大学などは、まさに、タイガーウッズから、ノーベル賞学者、億万長者までいるわけで、まさに人材の宇宙なわけですが、そうしたいろんな人が面白く絡みあっていくなかで、何かが生まれる。

 ただ、誤解してほしくないのは、近代産業社会が情報文化社会に完全に置き換わってしまうわけではありません。主たる社会原理が、情報社会型になるわけで、何割かは、近代国民国家システムは残ります。今でも、365日のうち、元旦とお盆とクリスマスは、我々もアンシャンレジームと同じ宗教的生活をします。そして、1年のうち、250日くらいを近代国民国家システムのもとで生活をしており、50日から100日の休みの日は、原始社会以来の家族制システムのもとで生活しているわけで、また、ごく一部の人たちは、ギリシャ・ローマの昔から、学問や美の世界で生きてきているわけです。この比率が、今後は、一人の一人の生活パターンも、社会全体のパターンも、例えば、5・6割は情報文化社会的、2割は、近代産業社会的、2割は家庭社会、残りは宗教的などといったように、比率が逆転していくんだということです。現に、僕も国会議員であり、大学教員であり、NPO役員であるわけです。もちろん、それぞれがきれいに分かれるわけではなく、いろんな要素が複合的に絡み合いながら、我々の生活を規定していくだろうということです。申し上げたいことは、情報文化革命というのは、社会の影響力の源泉が「アメとムチ」から「智慧・知恵」にシフトしていくだろうということですから、引き続き、政府や会社も大事なプレイヤーの一つではありますから誤解しないでください。これからは、今の近代産業社会に、情報文化的要素が取り付いて、社会全体が変化・変質・進化をとげていくんだと思います。ですから、時代の革新プロセスも今まで考えられていた革命パターンとは、かなり違ったものになっていきます。こうした、新しいパターンの革新のプロデュースをやってくれるのも、まさに、皆さんだと大いに期待していますので、がんばってください。

2002年2月吉日 
憲政記念館における講演 


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