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現在の仕事
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| 国会 | 参議院政治倫理の確立と選挙制度に関する特別委員会委員長、法務委員会委員、行政監視委員会委員 |
| 党内 | 民主党教育基本問題調査会事務局長 民主党インターネット選挙活動調査会長 民主党統合医療推進議員連盟幹事長 民主党スポーツ政策ワーキングチーム副座長 がん治療の前進をめざす民主党議員懇談会副会長 民主党大学東京・学長(東京都連の政治スクール) |
| その他 | 医療現場の危機打開と再建をめざす国会議員連盟幹事長 サッカー外交推進議員連盟副会長 プロ野球の更なる飛躍・発展とスポーツ文化振興による地域活性化を推進する会事務局長 統合医療推進議員連盟幹事 日本のうたとおはなし伝承普及議員連盟事務局長 子どもの未来を考える議員連盟幹事 日中韓子ども童話交流事業実行委員会常任委員 中央大学大学院公共政策研究科客員教授 早稲田大学IT教育研究所客員准教授 大阪大学工学部大学院非常勤講師 東京大学医科学研究所客員研究員 東京大学教養学部非常勤講師 NPO法人日本教育再興連盟代表理事 NPO法人スポーツ・コミュニティ&インテリジェント機構副理事長 NPO法人グリーンバード監事 現場からの医療改革推進協議会事務総長 六本木男声合唱団倶楽部特別顧問 すずかん・レボリューション(バンド) 表参道欅会商店街振興組合相談役、明治神宮崇敬会 医療情報学会、公共政策学会、情報ネットワーク法学会、計画行政学会 |
| 年 | 経歴 |
| 昭和39年(0歳) | 子午線のまち兵庫県明石市にてサラリーマンの家庭に生まれる。 |
| 父が、勤める化学工場で大爆発にまきこまれ、大やけどを負い、九死に | |
| 一生を得る。働く事が命がけである事を実感する。 | |
| 昭和45年(6歳) | 神戸大学教育学部付属小学校入学、半年で東京に転校。東京では杉 |
| 並区立桃井第三小学校在籍。再び小5で神戸市の小学校へ。 | |
| 小学校5・6年の時、担任の教員の態度を正面から批判。教員からの理 | |
| 理不尽ないじめにあう。それがきっかけで「教育」というものについて考 | |
| えるように。その教員へのお礼参りを考えていた鈴木少年に対し、校長 | |
| 先生は、論語の「寛即得衆」の言葉を引き合いに出し、優しく諭す。以後 | |
| この言葉が座右の銘となる。 | |
| 昭和51年(12歳) | 灘中入学。サッカー、文化祭、バンド活動に明け暮れる。 |
| 高校二年の時、サッカー神戸市一部リーグ優勝。 | |
| 声楽でコンサートを開催。一時はオペラ歌手を目指す。 | |
| 昭和57年(18歳) | 東京大学文科一類入学。 |
| 駒場小劇場を拠点とする劇団ネバーランド・ミュージカル・コミュニティ音 | |
| 楽監督と、東京大学音楽部コールアカデミー団員として東京六大学合唱 | |
| 大学合唱連盟理事活動に明け暮れる。グリーンテニスクラブにも所属。 | |
| 昭和61年(22歳) | 東京大学卒業。学者かテレビ局か迷いつつ、公への奉仕という意義深 |
| さに魅かれ、通商産業省に入省。 | |
| 資源エネルギー庁勤務、国土庁出向、通商産業省産業政策局、生活産 | |
| 業局勤務。その後、シドニー大学特別研究員として渡豪、アジア太平洋 | |
| 地域協力、華僑・華人研究の後、帰国。 | |
| 平成5年(29歳) | 山口県に出向、同県工業振興課長。 |
| 萩市の松下村塾の史跡に訪れ、この八畳二間で学んだわずか20名程 | |
| 度の若者が、歴史を大きく担う人材として育った事に感銘を受ける。 | |
| 在籍2年の内に20回は塾を訪れ、以降、東京に戻った際に若者塾を開 | |
| く構想の始まりとなる。 | |
| 阪神淡路大震災で実家が被災。その時の官庁の対応の遅さ、無力さ、 | |
| それと対照的な市民の力を目撃。「公に奉仕するために官庁で働いてい | |
| る」という信念に疑問が生じる。それが後に、通産省を退職するきっかけ | |
| に。 | |
| 平成7年(31歳) | 通産省に戻り、産業政策局取引信用室総括室長補佐。 |
| 通産省情報処理振興課総括課長補佐。 | |
| 通産省電子政策課総括課長補佐として、情報政策立案の現場責任者に | |
| 平成9年(33歳) | 通産省で勤務の傍ら、中央大学総合政策学部の兼任講師に。 |
| 平成11年(35歳) | 通産省を脱藩。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)環境情報学部 |
| 助教授に転ずる。若者と本気で交わり、多くの人材が育つ。 | |
| ラグビーの平尾誠二らとNPO法人スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリ | |
| ジェンス機構(SCIX)を設立。 | |
| また、母校の灘中学校・高等学校で情報科教諭も。 | |
| 平成13年(37歳) | 大学の教員として、教育の格差を目の当たりしたのをきっかけに、第19 |
| 回参議院議員通常選挙に東京選挙区から立候補、ジバン、カンバン、 | |
| カバンも無い中、野党最大得票で初当選。 | |
| 文教科学委員会理事、憲法調査会幹事、法務委員会委員、共生社会調 | |
| 査会会員、行政監視委員会委員、党本部副幹事長、政調副会長などを | |
| 歴任。 | |
| スズカン.TVを配信開始。現在では放送回数250回もの長寿番組に。 | |
| 「次の内閣」文部科学大臣に就任。 | |
| NPO法人日本教育再興連盟代表理事、NPO法人日本子守唄協会理事 | |
| 、現場からの医療改革推進協議会事務局長。東大医科研客員研究員。 | |
| 東京大学、早稲田大学、中央大学、大阪大学で教鞭を執る。 | |
| 平成19年(43歳) | 第21回参議院選挙にて二期目の当選。 |
| 政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会委員長就任。 |
| 免許・資格 |
| 普通自動車第一種免許、船舶四級免許 オーストラリアヨット協会コンペテント・クルー・サーティフィケイト、アドバンス・スキューバ・ダイバー・ライセンス |
| 得意な学科 | 健康状態 |
| 情報科 | 良好 |
| 趣 味 | スポーツ |
| 社会創造活動、若者育成 | サッカー、スキー、テニス、ヨット |
| 志望動機 |
| 多くの人が交わり、響き、楽しむ世の中をつくりたいと思っています。私は、特に医療と教育・メディアなどのソーシャル・ヒューマン・サービスの改革を目指していますが、そのためには人材育成、方法開発、システム改革が必要です。私は教師として、人を育て、学者として方法を開発し、議員として、システム改革に不可欠な法律と予算を決めていく責任を担いたいと考えているからです。 |